ディケンズ・フェロウシッ プ日本支部

ディケンズ小伝


 1   子供時代の楽園喪失
 2   ジャーナリズムへの道
 3   小説家ボズの誕生
 4   リテラリ・ライオンとして
 5   家庭のトラブル、晩年の活躍 

 

1 子供時代の楽園喪失

チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens) は、一八一ニ年二月七目、父ジョンと母エリザベスの第二子長男として、イギ リス南部ハンプシャーの港町ポーツマスのランドポート、マイル・エンド・テ ラスー番地(マイル・エンド・ロード三八七としても知られていたが、現在は コマーシャル・ロード三九三、ディケンズ生誕地博物館となっている)で生ま れた。海軍経理局事務官であった父親の仕事の関係で、一家は一八一五年から 約二年間ロンドンに移り住んだが、一八一七年にケント州チャタムへ再び居を 移すことになった。それから五年間、チャールズはかけがえのない幸せな子供 時代をこの地で経験した。チャタムと、その近くの大聖堂の町ロチェスターは、 彼の心のふるさととして、しばしば作品の中に登場する ことになる。

一八三二年六月頃に、ジョン・ディケンズがサマセット・ハウス内の事務室に 転勤になって、一家はロンドンのキャムデン・タウン、ベイアム・ストリート 一六へ引っ越した。ジョンは生来陽気な性格の持ち主で、仕事にも熱心であっ たが、経理局に勤めながらまるで経済観念がなかった。そのために彼は相当の 借財をかかえこんでいたようである。ロンドンに移った少年時代のディケンズ は、ろくに周囲を見回す間もなく、 貧困の辛酸に身をさらす羽目になるのである。父親の使い走りや質屋へ足を運 ぶのはまだいいほうで、一八二四年二月、一二歳の誕生日を過ぎたばかりの彼 は、ストランドのハンガーフォード・ステアーズにあったウォレン靴墨工場へ 働きに出なければならなくなった。人一倍感受性が強く勝ち気なディケンズ少 年にとって、このときの苦痛と屈辱感は「とても筆舌に尽くせるものではなか った」。加えて、父親が借財のためについにマーシャルシー債務者監獄に収監 されて、家庭的な愛情から完全に見放されてしまうようになる。

『リトル・ドリット』(Little Dorrit) を読めばわかるように、債務者監 獄の内部はいくつもの部屋に分かれていて、家庭生活ができるような仕組みに なっていた。家族がマーシャルシー監獄に移ってから、ディケンズは近くのラ ント・ストリートに下宿生活を始めた。早朝にロンドン橋の辺りをぶらつきな がらながら獄門が開くのを待って中に入り、朝食をとって靴墨工場へ出勤、そ して仕事が終わると、またマーシャル シーの「家庭」へ戻る、というのが当時の彼の日課であった。「もし神の加護 がなかったら・・・私はチンピラ泥俸か浮浪児になり果てていたことであろう」 と、ディケンズはこの時代の危機感を回想している。

監獄生活二か月後に、チャールズの祖母エリザベス・ディケンズが死亡、その 遺産(四五〇ボンド)のおかげでジョンは釈放された、というのが従来の定説 であるが、実は問題の遺言書が検認されたのは一八二四年六月四目。ジョンは、 それより早く五月二八目に出獄している。すなわち請願書の提出により、債権 者との間に示談が成立し、支払い不能債務者法の適用を受けるのに成功したか らである。出獄後、ディケンズー家はサマズ・タウン、ジョンソン・ストリー ト(現在クランリー・ストリート)二九の借家に居を移す。

チャールズの靴墨工場での労働期間は、せいぜい五か月程度であったが、その 間の孤独感と辛さは、一生にわたる精神的外傷を負わせるのに十分であった。 生涯を通して牢獄の暗い影の強迫観念に取りつかれるのも、無理のないことで あったのである。普通の一二歳の子供であったならば、この間の精神的痛手は、 死の宣告にもひとしいものとなったかもしれない。が、チャールズは鉄の意志 力をもって、その逆境からはい上がった。憐れな浮浪児が、やがてライオンに 生まれ変わる日が来るのである。しかし、その強靱な意志力の反面、「浮浪児」 の己に対する憐欄の情が彼の中に生き続けていたことも事実である。両者が表 裏の関係をなして、ディケンズの人生と作品の世界を特徴づけているのである。


2 ジャーナリズムへの道

ディケンズは靴墨工場を辞めてから間もなく、一八二四年六月からハムステッ ド・ロード、グランビー・ストリートにあったウェリントン・ハウス・アカデ ミーに通い始めた。チャタム時代に一年足らずの間ウィリアム・ジャイルズの 学校に通ったことを除けば、ここでのせいぜい三年足らずの課程が、彼の正規 の学歴のすべてをなす。しかし、一八三〇年二月八日 ― 所定の満一八歳に達 するや否や、彼は大英博物館の読書力-ドを申請、以後膨大な数の書物を読み こなすようになる。

一八二七年三月、家賃不払いのために一家は借家を追い出される羽目になった。 ようやくウェリントン・ハウス・アカデミーでの教育を終えたばかりのディケ ンズは、法律事務所の事務員となることで自活への第一歩を踏み出した。しか し、法律関係の仕事が万事スローで退屈この上ないことに嫌気がさしたディケ ンズは、次はジャーナリストとしての活躍を夢み、「六か国語をマスターする のに匹敵する」ほど困難な速記術の独習に取りかかった。これをマスターする と同時に彼は法律事務所を辞めて、一八二八年二月から民法博士会館の自由契 約速記記者としての仕事に就く。

しかし活気と刺激を求めてやまないディケンズは、念願の国会記者になれる年 齢(二〇歳)に達する日を待つのがもどかしく、いっそのこと俳優として名を あげようと決意したことがあった。彼は根っからの芝居好き ― 生来の才能が あり、法律事務所勤めの合間に足しげく劇場通いをした経験もあって、かなり の自信を持っていた。ところがオーディション当日、悪性感冒のために出かけ ることができなくなってしまった。不運だったのか、それとも天の配剤であっ たというべきか。

ディケンズが再度同じような機会を狙っていたという形跡はない。一八三二年 早々に、彼が満二〇歳になるより少し前に待望の日が訪れた。母方の叔父ジョ ン・ヘンリー・バローの経営する『ミラー・オブ・パーラメント』紙の報道記 者として登用されることになったのである。ほとんど時を同じくして、タ刊新 聞『トゥルー・サン』からも国会記者としての口がかかってきた。いよいよジ ャーナリストとしてのディケンズが誕生した わけだが、この前後に彼はもう一度痛ましい試練を通過しなければならなくな る。 ― マライア・ビードネルとの恋愛である。マライアは、一八三〇年五月 頃に初めてディケンズが出会ったロンドンの銀行家の令嬢。一目見たときから 彼はすっかりのぼせ上がってしまった。以後三年間、ひたすら彼女の心を求め 続けたあげくに、彼はまったく望みのないことを思い知らされて、失恋の深手 を負わされる羽目になった。この間の恋愛と、二二年後におけるウインター夫 人としてのマライアとの再会の経験は、それぞれドーラに対するデイヴィッ ド・コパーフィールドの熱愛と、『リトル・ドリット』において、愛よもう一 度の滑稽を演じる中年女フローラ・フィンチングとなって、芸術的に花開くこ とになる。靴墨工場の工員として絶望状態に陥ったときと同様、この場合も持 ち前の意志力とプライドが起死回生の原動力となり、ディケンズは再ぴ喪失か らの偉大な出発の一歩を踏み出したのである。

本格的ジャーナリスト活動を始めて二年目の一八三四年八月、ディケンズは『モ ーニング・クロニクル』紙に報道記者として迎えられ、いよいよスター記者た ちの仲間入りがかなえられるようになった。翌年には彼は諸地方を歴訪し、ジ ョン・ラッセルのような大物政治家の演説を報道したり、地方の選挙風景を報 ずるなど、特技を活かしながら充実した生活を送っていた。

その一方で彼は、すでに文学的習作の発表を試みていた。その第一作「ポプラ 通りの晩餐会」("A Dinner at Poplar Walk"、のちに、"Mr. Minss and His Cousin" に改題されて『ボズのスケッチ集』「物語」編に 収録〉が一八三三年一二月一日号の『マンスリー・マガジン』に掲載されたの をはじめとして、同誌や『イブニング・クロニクル』、そしてその他の新聞・ 雑誌に続々とロンドンの生活・風物の素描が発表された。一八三四年八月に『マ ンスリー・マガジン』に掲載された「下宿屋 ― その二」("The Boarding House, Part II"、のちに『ボズのスケッチ集』「物語」編に収録)において、初めてペ ンネームとしての「ボズ」が登場、以後も書き続けられたスケッチの諸編は、 やがて『ボズのスケッチ集』(Sketches by 'Boz')という表題のもとに、 全三巻にまとめられることになるのである。


3 小説家ボズの誕生

ディケンズニ四歳の誕生日の翌日、一八三六年二月八目に『ボズのスケッチ集』 第一集三巻)が、ジョージ・クルクシャンクのさし絵入りで発行された。そし てその十日後に出版業者のチャプマン・アンド・ホール宛てに、彼は「ついに ピクウィックが意気揚々と軌道に乗り始めました。その第一号が明日中に出来 上がります」と書き送っている。分冊月刊(全二〇分冊。ただし第一九・二〇 分冊は合本)の形式をとることになった『ピクウィック・ペイパーズ』(The Pickwick Papers)は、その年の四月一日(三月三一日の予定が一日遅れた〉 に第一号が発行され、翌年二月に所定の第二〇号をもって完成した。その過程 で小説家ボズの名声は、まるでロケットのように急速に上昇していったのであ る。

『ピクウィック』第一号が刊行された翌日に、ディケンズはキャサリン・ホガ ースと結婚、ケント州グレヴゼンド近くのチョークで一週間のハネムーンを楽 しんだ。

当初はさほどでもなかった『ピクウィック』の人気は、第四号にサム・ウェラ ーが登場してから急上昇し、売れ行きは一挙に二万五〇〇〇部を突破、多いと きには四万部にまで達した。しかしこの輝かしい勝利の陰には、第一号刊行後 間もなくして起こったさし絵画家ロバート・シーマー(一七九八-一八三六) の自殺(四月二〇日)という、悲惨な出来事が伴った。彼とディケンズとの間 で、絵と文の主導権をめぐっての熾烈な争いが続いたあとの出来事であったの である。その後ディケンズはシーマーに代わるさし絵画家として "フィズ" こと ハブロット・K・ブラウンを登用、以後長期にわたって名コンビが組まれること になる。

一八三六年二月、ディケンズは月収二〇ポンドを条件に、翌年一月に創刊予定 の月刊雑誌『ベントリーズ・ミセラニー』の編集を担当する契約をリチャード・ ベントリーとの間で取り交わした。同時に彼は、「最も有能で最も迅速な報道 記者としての名声をあとに残して」『モーニング・クロニクル』を辞めて、編 集と作家業に専念するようになった。そして一八三七年二月発行の『ベントリ ーズ・ミセラニー』第二号に『オリヴァー・トゥイスト』(Oliver Twist) が登場、三九年三月まで、全二四回にわたって連載されることになる。

『オリヴァー・トゥイスト』の連載が始まってからディケンズはもう一度、一 生忘れることのできない不幸に見舞われた。この年の四月にディケンズ夫妻は、 それまでのファーニヴァルズ・インの住居を引き払って、同居の義妹メアリー・ ホガースとともにダウティ・ストリート四八番地(現在のディケンズ・ハウス) に移ったが、翌月の六目、芝居見物から帰宅したあとメアリーが急病で倒れ、 その翌日ディケンズの腕に抱かれて息を引きとった。時に彼女は一七歳。ディ ケンズは悲嘆のあまり、差し迫った執筆さえ中断しなけれぱならなかった。『オ リプァー・トゥイスト』、そして並行して書き進められていた『ピクウィック』 ともに、六月分がとんでいるのはそのためである。

一八三八年一月、ディケンズはさし絵画家の "フィズ" を連れてョークシャーに 赴き、当時悪名の高かった「安もの学校」を訪ねて回った。その結果は彼の第 三作目の小説『ニコラス・ニクルビー』(Nicholas Nickleby)(一八三 八年四月-三九年一〇月)における「ドゥザボーイズ・ホール」として描き出さ れることになる。第一分冊が刊行されるや否や、この小説もまた大変な人気を 博し、その売れ行きは四万八〇〇 〇部にものぼるほどであった。この作品の完成を記念して友人の画家ダニエ ル・マクリースから贈られたディケンズの肖像は、「ニクルビー・ポートレイ ト」と呼ぱれ、ナショナル・ポートレイト・ギャラリーに展示されていて、現 在も人気を呼んでいる。『ニコラス・ニクルビー』からは「ボズ」が消えて、 正式にチャールズ・ディケンズの名前が表面に出てくるようになった。

一八四〇年一月初旬から次作の週刊読物『ハンフリー親方の時計』(Master Humphrey's Clock)の出版準備を進めるかたわら、ディケンズは匿名で「若 夫婦に関するスケッチ集」("Sketches of Young Couples") という小品を刊行 した。このスケッチ集は二年前(一八三八)に刊行された小品「若年紳士に関 する素描」("Sketches of Young Gentlemen") 同様、大して人気もなく、ディ ケンズ生前のどの版にも収録されたことがないのに、どういうわけか、加勢鶴 太郎という人物によって、一八八二年(明治15)に、『西洋夫婦事情』という 題で邦訳〈といっても原形をとどめないくらいに奔放な訳)されている。

一八四〇年四月四日に『ハンフリー親方の時計』第一号が刊行され、「実に目 ざましい」売れ行きとなったが、それは一回きりの現象に終わってしまった。 そこでディケンズは長編連載に構想を切り換えるべく、その第四号に現在の『骨 董屋』(The Old Curiosity Shop〉第一章に相当する「ハンフリー親方 の個人的冒険 ― 骨董屋」を書いた。そうして軌道に乗った『骨董屋』は、一 八四一年二月六日に前後四〇週にわた る連載をもって完結、引き続き『ハンフリー親方の時計』には、一八四一年二 月一三日から二月二七日にかけて『バーナビー・ラッジ』(Barnaby Rudge)が連載されることになる。


4 リテラリ・ライオンとして

『バーナビー・ラッジ』が刊行され始めた頃までには、ディケンズの文学的名 声と社会的地位は不動のものとしで定着していた。もともと社会的関心の深か った彼が上流の若い女性慈善家アンジェラ・バーデット・クーツ(一八一四- 一九〇六〉の知遇を得たのも、その頃であった。彼女の支援のもとに、彼は一 八四七年二月にロンドンの西郊シェパーズ・ブッシュに、売春婦 (fallen women) の収容施設「ユーレニア・コテジ」を開設し、約一〇年間にわたってきわめて 情熱的にその管理役を務めた。

一八四二年一月から六月にかけて、ディケンズは妻同伴でアメリカを訪問、至 る所で引っぱりだこの熱烈歓迎を受けた。しかし、その間の体験に基づいて書 かれた『アメリカ見聞記』(American Notes)(一八四二)にも見られ るように、アメリカに対するディケンズの期待は大幅に裏切られたようである。 続いて月刊分冊で刊行された『マーティン・チャズルウィット』(Martin Chuzzlewit)(一八四三年一月-四四年七月)に含まれているアメリカの章 には、この国で味わったディケンズの幻滅が大きく作用しているといえよう。

一八四三年一〇月五日に、ディケンズはマンチェスターの労働者の教育とレク リエイション施設を作るために組織されたアセニーアムに招かれて、募金のた めの講演を行なった。このあとにひらめいたインスピレイションが、『クリス マス・キャロル』(A Christmas Carol)(一八四三年-二月一九日発行〉 の創作につながることになる。その翌年七月にディケンズは家族とともにイタ リアに渡り、まる一年間旅行を続 けたが、最初の逗留地ジェノヴァで鳴り響く鐘の音を聞いて、「貧者のための 一大鉄槌」となるような作品を構想し始める。そして二月未までにその作品『鐘 の音』(The Chimes)を書き終え、原稿を携えてロンドンに立ち戻り、 一二月三日にジョン・フォースターの家で、カーライル、ダグラス・ジェロル ド、ダニエル・マクリース等々、親しい友人たちを前にしてそれを朗読、一同 に深い感銘を与えた。『鐘の音』は、『クリスマス・ブックス』(Christmas Books)の第二作として一八四四年-二月一六日に刊行された。『クリスマス・ ブックス』はこのあと、『炉ばたのこおろぎ』(The Cricket on the Hearth)二八四五年一二月二〇目)、『人生の戦い』(The Battle of Life)一二八四六年一二月一九目)と続き、一年とんで書かれた『つかれた 男』(The Haunted Man)(一八四八年一二月一九日)をもって完結す る。

一八四五年六月にイタリア旅行から戻ったディケンズは、間もなく素人演劇活 動に熱を入れ始め、九月にソホー、ディーン・ストリートにあった元女優のフ ランセス・ケリーの私設劇場で、ベン・ジョンソンの『十人十色』を上演、自 らはキャプテン・ボバディルを演じて大評判となった。その後ディケンズは一 八四六年一月二一日創刊の『デイリー・ニューズ』の編集を担当したが、経営 陣の一人で水晶宮の設計者として有名なジョセフ・パクストン(一八〇一-六五) と衝突して、わずか一九日でその職を辞した。しかし彼は、一月二一目から三 月二一日にかけて、イタリア旅行記「道中素描」("Travelling Sketches -- Written on the Road")(この「素描」からふくらんだ本格的旅行記は、五月に『イタリ アだより』(Pictures from Italy)と題して刊行)を断続的に寄稿したの をはじめ、「犯罪と教育」(一月四日)、「死刑について」(三月九、一三、 一六日)など、注目すべき論評をこの新聞紙上に書いている。

一八四六年五月末からディケンズ一家はスイス旅行に出かけ、六月から十一月 まではローザンヌに滞在、その後パリに渡ってしぱらく滞在した。その間に『ド ンビー父子』(Dombey and Son)の執筆が進められ、一〇月にその分 冊月刊第一号が出版される運びとなる。一八四八年四月にこの作品が完結する と、ディケンズはただちに次の作品『デイヴィッド・コパーフィールド』 (David Copperfield)(一八四九年四月-五〇年一〇月)の創作に着手、 翌年一〇月二三目にその最終章の原稿を出版社エヴァンズ宛てに送っているが、 その過程で彼は彼自身の経営・編集による週刊誌『ハウスホールド・ワーズ』 の発行を企画、一八五〇年三月三〇日にその創刊号が刊行された。

この週刊誌は一八五九年五月まで続き、その間にディケンズの『子供のための 英国史』(A Child's History of England)が、一八五一年一月から五三 年一二月にかけて断続的に掲載され、落ち込んできた売れ行きの挽回策として 『ハード・タイムズ』(Hard Times)が連載(一二八五四年四月一目- 八月一二日)されたほか、ギャスケル夫人の『リジー・リー』や『クランフォ ード』、『北と南』などが連載された。

一方、ディケンズの素人演劇活動も、年とともに本格化し、かつ評判も高まっ た。一八五〇年十一月には、文学・芸術ギルド(貧困芸術家救済事業)設立の ための募金興行として、『十人十色』がブルワー・リットンの田舎邸ネブワー ス・ハウスの大宴会の間で三晩連続で打たれ、「大成功の渦」を巻き起こす。 また一八五一年五月には、リットン原作の『見かけぽど悪くはない』が、ロン ドンのデヴォンシャー公爵邸で、ヴィクトリア女王と夫君アルバートの臨席を 得て公演された。さらに一八五七年にはウィルキー・コリンズ原作のメロドラ マ『凍れる海』がレパートリーに加わって、ディケンズの芝居熱は、いよいよ 病膏肓(やまいこうこう)に入るの感を呈した。しかもこの芝居の公演が機縁 となって、彼の一生の重大事が発生するのだが、そのことについては、もう少 しあとから述べる。

『ハウスホールド・ワーズ』を経営しながらも、ディケンズは依然として月刊 分冊の形式による作品発表の方法をとり続けていた。一八五一年二月末、彼は よりゆとりのあるタヴィストック・ハウスに居を移し、『デイヴィッド・コパ ーフィールド』に続く大作として、『荒涼館』(Bleak House)(一八 五二年三月-五三年九月)の執筆に取りかかった。この作品の人気もまた大変な ものであった。第一号が即増刷となり、第二、第三号が、それぞれ三万二〇〇 〇部と三万四〇〇〇部も売れたということである。

『荒涼館』や前掲『ハード・タイムズ』には、今までと異なった特色が歴然と 現われている。その最たるものとして、時事的課題に対するディケンズのジャ ーナリスティックな関心が、彼の芸術と見事な融合を遂げている点をあげるこ とができよう。前者においては、五〇年初頭から改革の議論が積極化していた (しかも旧態依然たる)大法院法廷が、イギリス社会制度の諸悪の象徴的機構 として描き出されている。そして後者『ハード・タイムズ』においては、産業 世界における自由競争の原理と、立身出世主義が、告発リストに加えられてい るのである。

そして、コレラ、住宅の不備、犯罪の温床たる無教育等、国内の諾問題に加え て、クリミア戦争(一八五三-五六〉に関する攻府の無策無能ぶりが重なって、 イギリスの国情に対するディケンズの失望が頂点に達したときに、『リトル・ ドリット』(Little Dorrit)(一八五五年一二月-五七年六月)は書か れた。これは『荒涼館』をも凌ぐ売れ行きとなり、第一号の初刷三万二〇〇〇 部がたちまち売れ尽き、年末までに六〇〇〇部の増刷が必要となった。同じく 社会的絶望の小説であっても、社会全体が病弊に取りつかれ、アンガス・ウィ ルソンが指摘するように、多くの人物が「黒白というよりは灰色一色に描かれ ている」という点で、この作品は『荒掠館』とも一味趣を異にしているのであ る。また、当時は誰も知らなかったことだが、マーシャルシー監獄の父親を通 じて、ディケンズの強迫観念が表出されているということも、注意すべき重要 な点の一つである。


5 家庭のトラブル、晩年の活躍

『リトル・ドリット』執筆中の一八五六年三月、ディケンズはロチェスターの 北西約ニマイル、旧ドーヴァー街道沿いにあるギャズヒル・プレイスを買い取 ることによって、子供時代の夢をかなえた。しかしこの邸は、決して第二のス ウィート・ホームにはならなかった。むしろこの邸購入の前後から、一〇人も の子どもを産んでいたディケンズの夫婦仲は、急速に冷めてゆき、約二年後に は決定的な破局を迎えることになる。

通例にもれず、彼らの場合にも他人にはわからない理由があったことであろう。 が、一つはっきりしているのは、ディケンズの前に若い女優エレン・ターナン (一八三九-一九一四)が現われてきたことだ。一八五七年八月にマンチェスタ ーのフリー・トレイド・ホールで『凍れる海』が上演されたが、この公演にエ レン・ターナンが、やはり女優であった母、姉とともに参加した。時にエレン は十八歳で、ディケンズは四五歳。その後二人の間係がどのような形で深まっ たかは詳らかでないが、ディケンズが死ぬまでの一三年間、二人の間に愛人関 係が続いたことだけは確かである。ここで参考までに、前述した若き目の恋人 マライア・ビードネルに再会して、夢を打ち砕かれたのが、ェレンとの「恋」 に陥る二年前のことであったことを思い出しておこう。その頃のディケンズは、 ある種の女の幻を追い続けていたに違いないのである。

一八五八年五月に、夫妻の間に正式に離婚が成立、ディケンズは六月一二目号 の『ハウスホールド・ワーズ』に「家庭のトラブル」に関する一文を書いて、 「最近の風評がまったく」無根であることを世に訴えたが、それから七年後に、 それがまったく無根でないことを立証する事件が発生した。一八六五年六月、 ケント州ステイプルハーストで大惨事を伴った列車事故が発生、危うく鉄橋か ら落ちかけた車両の中に、フランスから帰るディケンズとエレンが乗り合わせ ていたのである。ちなみに、ディケンズは死の前年に遺書を書き、その冒頭に エレンの名をあげて一〇〇〇ポンドを贈与する旨を記していたということが判 明している。

一八五九年四月三〇日に、ディケンズは『ハウスホールド・ワーズ』に代わる 週刊誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド』を創刊、その第一号から二月二六日 にかけて『二都物語』(A Tale of Two Cities)を連載した。そして翌年 一二月一日からは『大いなる遺産』(Great Expectations)が、一八六 一年八月三日まで連載されることになる。また六〇年一月二八目号には「商用 ぬきの旅人」("The Uncommercial Traveller") が登場、以後断続的にさまざま な主題の記事を提供している。そして一八六四年五月には『われらの共通の友』 (Our Mutual Friend)第一号が出て(六五年二月まで分冊月刊)、依 然として創作意欲の旺盛なところを見せているが、このあたりからディケンズ は、もう一つ新たな方向へ情熱とエネルギーを傾注するようになる。自作の公 開朗読活動である。ちょうど離婚と呼応するかのように、一八五八年四月から 始められたディケンズの朗読活動は、ロンドンから地方巡回公演へと発展し、 その範囲はイングランドの諸地方都市ぱかりでなく、スコットランド、アイル ランドにも及んだ。

一八六六年二月九日付の義妹ジョージーナ宛ての手紙で訴えているように、公 開朗読の超ハードスケジュールは、彼の健康に悪影響を及ぼした。にもかかわ らず、四月から六月にかけてはロンドンをはじめイングランド内の各地におい て、そして翌六七年一月から五月にかけてはイングランド内の各地とアイルラ ンドをまわって、それぞれ三〇回と五二回に及ぶ公演をこなし、さらに六七年 二月にはアメリカに渡り、一二月から六八 年四月二〇目までの約五か月間、悪性の風邪に冒されながら、各州の主要都市 において通算七五回に及ぶ公演を行なった。アメリカ公演で得た収益は一万九 〇〇〇ポンド。ディケンズの死後に残された全額九万三〇〇〇ポンドのうち、 およそ半分近くは公開朗読による収益であったということである。

アメリカから帰国したあともディケンズは、募る健康上の障害をおして朗読公 演を続行、一八六九年一月には「サイクスとナンシー」の第一回朗読によって、 一大センセイションを巻き起こす。しかし四月にはかねてからの左足の腫れと 痛みに加えて左手の麻痺状態の病状が悪化し、主治医の警告を容れて巡回公演 を中断せざるを得なくなった。

そして翌年三月一五日には、セント・ジェイムズ・ホールにおいて超満員の聴 衆を前に、通算四七二回目の、最後のお別れ公演を打つことになった。このと きの出し物には『クリスマス・キャロル』と、『ピクウィック』第三四章から 取ったバーデル夫人対ピクウィック氏の裁判の場面が選ばれた。朗読のあと、 熱狂的な喝采に応えてディケンズは再び聴衆の前に立ち、惜別の辞を述べた。 「これを最後に私は、このまばゆい七色の光の中から消え去ります。心の底か らの、感謝と尊敬と愛情のこもった、さようならを残して・・・」

ディケンズは、アメリカ滞在中の一八六八年一月から三月にかけて『アトラン ティック・マンスリー』に「ジョージ・シルヴァーマンの弁明」を連載(同年 二月に『オール・ザ・イヤー・ラウンド』にも連載)、同じく一月から五月に かけて『われらが若人たち』(Our Young Folks) 誌に「ホリデー・ロマ ンス」を連載(やはり『オール・ザ・イヤー・ラウンド』一月―四月連載)し た。そして帰国後、『われらの共通の友』以来の五年間という珍しく長い空白 を挟んで、一八七〇年四月一日から『エドウィン・ドルードの謎』(Edwin Drood) が月刊分冊で刊行され始めた。四月一八目付のJ・T・フィールズ宛 ての手紙で言っているように、その第一号は、「今までのどの作品をもはるか に、はるかに凌いで」一挙に五〇、〇〇〇部も売れた。しかし、ディケンズは 予定の全一二分冊のうち約半分相当の原稿を書き、第三分冊が出版されるのを 見ただけで、六月九日に世を去った。死因は脳出血。臨終の場には、二人の娘 と長男チャーリーのほかに、主治医フランク・べアドとエレン・ターナンがい た。

六月一四日、彼の遺骸はギャズヒルからウェストミンスター寺院に移され、親 族親友の見守る中で葬儀が取り行なわれたあと、ポエッツ・コーナーに埋葬さ れた。一八六九年五月一二日付で書かれた遺書には、いかなる種類の顕彰をも 固辞した上で、「私は国に対しては出版された私の作品をもって、そして友人 諸君に対しては、それら作品に加えて私との交友経験をもって、私の思い出と してくれることを望むだけである」という一文が含まれていた。


© The Dickens Fellowship: Japan Branch
All rights reserved.