ディケンズ・フェロウシップ会報 第十二号(1989年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XII

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部


ディケンズ・フェロウシップ日本支部
1988年10月ー89年9月

1988年10月8日(土)午後2:00より  
 総会 於成城大学5号館会議室
 1. 総会 2:00より
    挨拶 宮崎孝一氏
    司会 間二郎氏
    会計報告 青木健氏
 2. 講演 2:30より
    司会 宮崎孝一氏
    講師 Professor Elias Bredsdorff
         (ケンブリッジ大学名誉教授)
    演題 "Charles Dickens and Hans Andersen"

1989年6月10日(土)午後2:30より
 春期大会 於甲南大学平生(ひらお)記念館
 1. 開会挨拶 小池滋氏
 2. 研究発表 2:45より
   司会 植木研介氏
   発表および論題
   (1) 石塚裕子氏「Our Mutual Friendをめぐって」
   (2) 田中孝信氏「Little Dorritにおける「窓」」
 3. 講演 4:00より
   司会 松村昌家氏
   講師 Professor Michael Hollington(ニュー・サウス・ウェルズ大学教授)
   演題 "Dickens And Australia"

表紙の絵 Gad's Hill Place, Kent

Dickensとcholera
湯木満寿美

 Dickensは1854年Household Wordsで、選挙改革よりも、健康と家屋の改
善が、より重要であると警告している。小説Little Dorritのなかで、貧困情景を
「せまくるしい井戸や中庭を囲んで、家が幾哩も東西南北につづき、住民は空
気を求めてあえいでいる」と描写しているが、Metropolitn Sanitary Associationの
speechでは水と空気を与えよと訴えている。
 コレラが印度からロンドンに持ちこまれたのは1831年というが、ロンド
ン市民は長年この疫病に苦しんだ。1831年のコレラでは数ケ月で6、00
0人の死者、1848−49年には、14、000人、1854年には10、
675人、更に1866年には5、000人以上が3週問で死亡した。184
9年Charles Kingsleyはコレラ感染地を視察して、「人々は水の供給を求めてい
る。彼等の窓の下によどむ下水には犬猫魚の死がいが充満している」と報告し
ている。
 当時の新聞はロンドンを「choleraの都」と呼んだが、その惨状は想像以上の
ものであったろう。汚水がコレラやチフスをを媒介するとも言われたが、Dickens
のOliver Twistでは、Bill Sikesが最后のかくれ場所とするBermondseyのJacob's 
Islandが疫病の発生地となっている。伝染の経路がはじめははっきりしなかった
が、Victoria女王の産科医Dr. John Snowが飲料水の媒介によると確証したことに
よって、取りあえず対策が講ぜられ、患者が低下したという。
 しかしこの頃既にテムズ河は急増する船舶や、市街からの下水によって流さ
れる汚物のために、汚染されていたのである。かくてDickensの小説の如実的描
写、更にcholeraの度重なる発生により、世論が高まり、1848年初めてPublic 
Health Actが議会通過、爾来幾度か修正が加えられたのである。

神の見えざる手
那須正彦

 英語・英文学とくにディケンズの専門家がお集りの「フェロウシップ」の中
で、経済学を専攻する私は恐らく唯一の門外漢であろう。
 その私が、いわば紛れ込んで来た経緯についてお話したい。
◇
 1986年、私はロンドン大学(LSE)に暫く客員として滞在、ロンドン金融
市場の研究に従う機会をもった。今回は比較的ゆとりのある日程だったので、
余暇をみつけてはイングランドばかりでなくウェールズやスコットランドにも
足をのばし、その風土、歴史、文化などすっかり英国の魅力にとらえられてし
まった。
 帰国後まるで熱病にとりつかれたように、英国関係なら何でもいいという感
じで読み漁った本の中の出口保夫著『午後は女王陛下の紅茶を』で「英国紅茶
同好会」なるものの存在を知り、早速未知の出口先生にお手紙を書いて会に入
れていただいた。お茶の水ヒル・トップ・ホテルでの例会でお茶の講釈やシャ
ーロック・ホームズ論などききながら、「アッサム」「アール・グレイ」など
を、われながらいささかスノッビッシュなポーズで賞味する機会を重ねるうち
に小池滋先生にめぐりあい、「フェロウシップ」へのお誘いを受けたという次
第である。
 「フェロウシップ」ヘの初参加は87年秋であったが、その会場は何と懐か
しい我が母校成城であり、支部長は成城大学の宮崎学長、事務局もそこに置か
れていた。
 私は旧制成城高校の出身なのだが、そこで私はトマス・ハーディやジョン・
ゴールズワージー、そしてジョージ・ギッシングなどをテキストで読み、そう
した良質な英文学との幸福な出会いが後年のブリティッシュネスヘの傾斜の原
点になったように思われる。
◇
 私共の学んでいる近代経済学の父アダム・スミスが市場経済の自動調節機能
を「見えざる手invisible hand」と比喩的に呼んだのはよく知られている。「フェ
ロウシップ」の研究会のあと、つい先日まで全く存じ上げなかった先生方と成
城の町を歩き、おきまりの店で愉しくのみながら、いつも私はロンドン大学→
英国紅茶同好会→ディケンズ・フェロウシップ、そして成城への回帰という思
いもかけない展開に、他ならぬ「見えざる手」の存在を切実に想うのである。
 ところで、私の当面のー本業の方でのーターゲットは、今世紀最大の経済学
者といってよいジョン・メイナード・ケインズ(1883−1946)である。
彼はヴィクトリア朝の盛期にケンブリッジに生れ、はじめ数学、哲学を学び、
リットン・ストレイチーやヴァージニア・ウルフ等「ブルームズベリー・グル
ープ」の有名メンバーでもあった。従って、その学問、思想の形成過程の研究
には幅広い視野が求められる。そうした探素の中で或はディケンズとの接点が
見つかるかも知れない。現に、王立経済学会によって刊行が進められている「ケ
インズ全集」の中にディケンズに言及している箇所を一、二発見して改めて驚
いているのである。
 「見えざる手」は、ケインズ経済学研究の過程で、果たしてどんな方向へ私
を導いてゆくのであろうか。

『荒涼館』と『ロウフィールド館の惨劇』
山崎真由美

 ルースデルの『ロウフィールド館の惨劇』は、地方のアッパーミドルクラス
であるカヴァディル家の4人が、ロウフィールド館で使用人ユーニス・パーチ
マンに惨殺される事件を描いたものであるが、ディケンズの読者には興味深い
作品といえる。
 作品中レンデルは、『荒涼館」に登場する頭のおかしいフライト嬢の小鳥た
ちの名をそっくり引用している。それも一度ではなく三度もなのだ。最初は事
件後すっかり荒廃した屋敷を描写する際、次にユーニスが犯行後死体を平然と
見下ろす時、そして三度目は作品の締めくくりとして引用されている。リフレ
インのように用いられているこれらの引用は、作品のイメージを盛り上げるた
めだけではなさそうである。他にディケンズからの引用はないが、作品には『荒
涼館』がいたるところで顔を覗かせているのがわかるのだ。
 殺人に手を貸すことになるジョン・スミスは、エピファニーという新興宗教
に凝り固まった精神異常者であり、その夫ノーマンは田舎でパブのような店を
開くのが夢という平几な男である。ヒステリー気味で狂信的な妻と、気弱で妻
に頭の上がらぬ夫という組合せは、スナグズビー夫妻の場合と全く同じなのだ。
また被害者の遺言が不備だったせいで、ロウフィールド館は、相続権を巡って
親族間で争われることになる。訴訟は、双方に決め手が無いため解決する見通
しはたたず、かつては美しく手入れの行き届いていた屋敷は荒れ果てていくの
てある。それは、長引くジャーンディス対ジャーンディス訴訟で誰もが身を滅
ぼしていくのを髣髴とさせる。ディケンズ的なところは更に続く。作品には、
レンデルらしからぬ道徳的教訓が盛り込まれているのだ。「起伏のする畑の中
にぽつんと立つロウフィールド館、(中略)スクントウィチの街道に立つ旅人
は、館のあかあかとした灯を見ることができるだろう。あんな小さな燭火でさ
えも如比遠くまで及ぶんだよ!ちょうどこんな風に善い行為が末世を照らすの
です。」(小尾芙佐訳)まさにディケンズの口調ではないか。そもそも惨殺さ
れる原因となったのは、被害者の1人であり一家の主婦であるジャックリーン
が、ヴィクトリア朝の生活に憧れを抱いていたせいなのだ。良く働く女中や料
理人を持つことを夢みていた彼女は、女中に志願してきたユーニスから「奥様」
と呼ばれたことで、虚栄心をくすぐられる。それでユーニスの身元を調べもせ
ずに雇い入れてしまうのだ。ヴィクトリア時代に憧れていた俗物根性のために
悲劇は起こってしまったのである。こうなるとパーチマンという名さえも勘ぐ
りたくなるというものだ。カヴァディル家の次女ミリンダは、パーチマンとい
う名をもじってユーニスのことを「羊皮紙顔(パーチメント・フェイス)」と
呼ぶのだが、フライト嬢の小鳥の名の1つ「羊皮紙」をニックネームとして用
いたいがために、わざわざパーチマンと付けたのではないだろうか。
 何よりも、ユーニスがカヴァデイル家の4人を惨殺したのは彼女が文盲のせ
いであったのだ。このショッキングな状況は、ジョーを思い起こさせる。読み
書きはおろか神の事を聞いたこともないジョーは、いつも追い立てられ人々を
恐れている。文盲であることをひた隠しにしようとしたユーニスも、ジョーと
殆ど変わらぬ状態だったのである。印刷された文字を恐れ、それから身を守る
手段として外界と自分を隔絶しようとしていたのである。つまり彼女には、他
者を思いやる気持ちも想像力も存在していなかったのだ。本能を抑制すること
のできない彼女は、自分の父親を殺し、カヴァディル一家を殺す。それも憎し
みや恨みからではなく、うるさい蝿を叩き潰すように何の感慨も抱かず平然と。
19世紀では、ジョーの様な人間は、下層階級という1つの世界に属し、字が
読めなくても恥じることはなかっただろう。しかし暮しぶりの差が暖味になっ
た時代では、ユーニスは文盲故に世間から蔑視されたに遵いない。
 ディケンズを愛読するというレンデルが、『荒涼館』から引用したにとどま
らず、それを土台にして『ロウフィールド館の惨劇』を書いたといっても言い
過ぎではないだろう。しかし、彼女が『荒涼館』からいかに刺激を受けたかと
いうことも興味深い事ながら、逆に『ロウフィールド館の惨劇』を読むことで、
『荒涼館』の持つ恐怖や狂気の要素がはっきりとわかるのが面自い。『荒涼館』
にイギリス小説初の探偵であるバケット警部が登場してくるのも決して偶然で
はない。レンデルは『荒涼館』に犯罪とミステリーを鋭く感じ、それを現代の
残酷な殺人事件に仕立て上げたのである。

Prof. Elias Bredsdorff
Charles Dickens ans Hans Andersen
講演要旨
横川信義・記

 アンデルセンとディケンズは共に貧乏で惨めな少年時代を過ごし、似通った
境遇をもつもの同志の親近感を、会う以前からもっていた。
 アンデルセンの『即興詩人』(1835)は1845年に英語に訳されて大
好評を博し、続いて童話集、旅行記、自伝が英国で出版されてその才能がもて
はやされ、英文壇に衝撃を与え、ブラウニング夫妻の恋文にも、サッカレーの
書簡にも彼の名が登場する。ディケンズも彼の作品を高く評価していた。
 1847年6月から8月、アンデルセンは初めて英国を訪れ、文壇の名士と
して上流階級にちやほやされたが、ディケンズとはロンドンのブレッシントン
夫人邸で初対面、「最も愛している英人作家に会えたことで深く感勤し幸福」
だったと書いている。ディケンズは8月1日ロンドンの家での朝食に彼を招待
したが、中旬までロンドンに出られないことがわかって、ホテルに彼を訪ね、
外出中なので署名入りの自作12冊を置いて帰った。英国出発の前夜、彼をケ
ント州のブロードステアーズの自宅に招き、8月31日ラムズゲート出発の日
は波止場に彼を見送った。
 帰国後アンデルセンは新作を発表する度にこれをディケンズに捧げ、手紙の
交換が続いて2人の間に友情が生まれた。ディケンズの度重なる招待にアンデ
ルセンは初対面から10年後再び英国を訪れ、ケント州ギャヅヒルのディケン
ズの自宅に滞在した。1857年6月11日から7月15日までの5週間であ
った。ここから2人の友情の幸福と幻滅が始まる。
 ディケンズは客人をクリスタル・パレスでのヘンデルの『メサイア』ほか、
シェイクスピアの『テンペスト』、ヴェルディの『椿姫』、そしてヴィクトリ
ア女王の前で自ら出演したウィルキー・コリンズの『凍れる海」にも案内した。
 ディケンズ家での主人はアンデルセンによると「愛想よく、活発で思いやり」
があり、夫人は『デイヴィド・コパーフィールド』のアグネスのように「おだ
やかで家庭的」、娘たちは「奇麗で飾り気がなく、才たけて」いた。しかしア
ンデルセンの幸福は長くは続かなかった。胃痛、歯痛、ふさぎ込みの発作があ
り、ディケンズの義妹のホーガスも子供たちも彼にすげなく当るようになった。
ディケンズ一家の考えでは、アンデルセンの訪間は完全な失敗であった。ディ
ケンズの態度も変である。アンデルセンが来る以前から友人への手紙の中で、
彼が来ることになっているが気にしないでほしい。「彼はデンマーク語以外の
言葉は知らないし、そのデンマーク語さえよく分かっていないと言われている
くらいだから」と書いている。
 アンデルセンは英語が全然ダメ、それで家族のものをいらいらさせたが、着
いた翌朝からディケンズの長男にヒゲをそらせようとして怒らせるなど、非常
にわがままで、態度の異常さもあって家族のものを疲れさせ退屈させた。いず
れにしても滞在が長すぎた。ディケンズの娘、後のケイト・ペルジーニ夫人は
「ひどく退屈な人で、いつまでもいつまでも滞在し続けた」と評しているし、
ディケンズ自身もアンデルセンを泊めた部屋について「アンデルセンはこの部
星で5週間過ごした。それが家族のものには長い年月に思えた」と書いている。
ディケンズ夫妻の仲がギクシャクしていたのに加えて、たまたまディケンズの
親友が急死し、彼が遺族の救済資金集めに必死になっていたタイミングの悪さ
も響いた。
 しかし最大の原因は2人の性格の違い過ぎにあった。ディケンズは小説の中
では感情的だったが実生活では違っていた。友人の間では彼は若々しくふざけ
好きだった。アンデルセンのユーモアは友人間では出ず、ひどくセンチメンタ
ルだった。
 帰国後アンデルセンはディケンズに感謝の手紙を書いた。返事は来なかった。
彼は本を送り続け、手紙も出し続けた。「後には手紙も間遠になり、ここ数年
間は全然来なくなった。おしまい、おしまい、どのお話しもそうなるものだ」
と、アンデルセンは彼の物語『もみの木』の結末をそっくり引用して書いてい
る。彼が帰国後デンマークの新聞に連載した「ディケンズを訪ねて」がドイツ
で海賊版で出版され、それがBentley's Miscellanyに批評されたのを読んでディケ
ンズが腹を立てたに違いない。ディケンズ一家での和気あいあいの空気の描写
が、ディケンズが妻との離別後出たため、友情の裏切り行為に見えたのだろう。
アンデルセンが誠心誠意、全面的に友情を捧げたのに対し、ディケンズの側に
は恩着せがましいところがあり、2人の友情は対等ではなかった。しかし2人
の友情は悲劇ではない。一時それはディケンズを魅了し、アンデルセンには、
尊敬する作家と誰よりも近くで接し得たという大きな幸福感を与えたからであ
る。

Prof. Michael Hollington
Dickens and Australia
講演要旨
松村昌家・記

 Dickens and the Grotesque(Croom Helm, 1984)でおなじみのマイケル・ホリント
ン教授(The University of New South Wales)が来日、6月10日に甲南大学平生記
念会館で開かれたディケンズ・フェロウシップ日本支部春季大会で講演をされ
た。演題は"Dickens and Australia." 以下多少の独断を交えながら、その内容を要
約する。
 ディケンズの母方の祖父チャールズ・バローが勤め先の帳簿をごまかし、告
訴を恐れてマン島に逃れたという話は有名だが、身内のこのスキャンダルは、
幼年時代のディケンズに深い心理的影響を及ぼしたに違いない。たまたま18
19年から37年あたりまでは、いわばオーストラリアへの「流刑の黄金時代」
となっていた。『ピクウィック・ペイパーズ』にいち早く"The Convict's Return"
の挿話が登場するのは、この意味で興味深い。オーストラリアへの流刑の主題
は、『ドンビー父子』、『大いなる遺産』に引きつがれ、また移民の主題に形
を変えて、『デイヴィッド・コパーフィールド』でくり返されることになる。
 一方、ディケンズ自身は遂にオーストラリアの地を踏まなかったが、あたか
も「その代わりに」といわんばかりに四男アルフレッドと末子エドワードを彼
の地へ移住させた。しかもディケンズは、コーラム・ストリートの捨子病院、
資民学校に関与し、とりわけユーレイニア・コテジの経営に深く関わることに
よって、オーストラリアおよびその他の植民地への移任の推進に力を注いだ。
 そこで今度は小説の世界へ目を向けると、次の2つの点に気がつく。1つは、
オーストラリアの問題が大きく扱われている作品には、自伝的要素が濃厚であ
ること。そして『ドンビー』、『デイヴィッド』、『大いなる遺産』が、ディ
ケンズの子ども時代のトラウマについて、「告白」がなされた後に書かれた作
品であること。
 流刑であれ移民であれ、必然的に"redemption"の問題が付随する。そこでホリ
ントン氏は再び"The Convict's Return"に目を向け、この物語の「主たる興味は、
その表題にいう"return"が強調されている点にある」ことを強調する。『ドンビ
ー』におけるアリス・マーウッド、『大いなる遺産』におけるマグウィッチが、
ともに「帰郷」のドラマを演じていることはいうまでもないことだが、『デイ
ヴィッド』のペゴティさえ「植民地生活を通じて、どのように人間が変わった
かを知らせるために」帰ってくるのである。
 では、これらの帰郷を通じて、どのような形の「救済」が示されるようにな
るのか。もちろん一概には語り得ない問題だ。先の「囚人の帰郷」の主人公が、
少なくとも「晩年の3年間は幸福な人生」を享受するのに対して、アリスは無
惨な生涯を終える。しかもハリエット・カーカとの関係を通じて、ディケンズ
がこの転落の女に関しても救済のパターンを生かしていることは、疑いのない
ところである。
 流刑ではなく移住が主題の『デイヴィッド』において、「救済」が他の異な
る趣きを呈するようになるのはもちろんであるが、この要約の中ではその問題
はさておく。『デイヴィッド』と、再び流刑の主題から成る『大いなる遺産』
との間に、オーストラリアにおける「金の発見という歴史的なキー・イヴェン
ト」が挟まれていた、という指摘をより重視したいからだ。ホリントン氏の見
方によれば、『大いなる遺産』には、この出来事が何らかの影を落としている。
しかも1857年に上演された『凍れる海』の内容、そしてそこから発展した
『二都物語』の筋書きが証明するように、1850年代後半におけるディケン
ズは、従来よりもさらに深く「救済」の問題にとりつかれていた。『大いなる
遺産』において、『デイヴィッド』の場会よりも緊迫したオーストラリア観が
あらわれ、それが激しい「救済」ヘの希求とぶっつかり合うようになる。当然
の結果として、この作品における「救済」のパターンは、複雑さを増す。
 特に見落としてならないのは、ピップとマグウィッチが互いに"dupe"としての
役割を演じていることだ。「救済」のテーマの中に、パラドックスが入り込ん
でくるゆえんなのだが、「現実がすでに極めて不可思議」なものである以上、
それについての「まともな理解を取り戻すためには」、パラドックスの経験が
むしろ必要なのである。オーストラリアが結局のところ「ミラージュ」であっ
たことが判明するのにも、パラドックスが感じられるが、作者のねらいとする
「落ち着いた納得のできる救済」にありつくために、その「まわり道」は必要
であったのである。

講演のあと、ホリントン氏は『大いなる遺産』第31章−ウォプスル氏ハムレ
ットを演ずるの巻を朗読、盛んな喝采のうちに閉幕となった。

春期大会における研究発表
司会者の弁
植木研介

 今年の春の例会は、甲南大学の緑深き静かな甲南学園同窓会館で開催され、
マイケル・ホリントン氏同席のもと、石塚裕子氏と田中孝信氏の熱のこもった
発表を傾聴した。石塚氏は『われらが共通の友』を新しい疑似家族(共同体)
を作ろうとするボフィンの物語の観点から、田中氏は従来牢獄のイメージとの
関係で語られることの多い『リトル・ドリット』を「窓」という清新な視点か
ら説かれた。内容の要旨については、お2人から寄せられた要約をご覧いただ
きたい。

Our Mutual Friendをめぐって
石塚裕子

 『ピクウィック』で18世紀文学に別れを告げ、社会改革者としての作家姿
勢を打ち出していったディケンズにとって、締めくくりとしてどういう結果に
たどりついたのかを、完成した最後の小説Our Mutual Friendの中に探るのが、本
発表の狙いである。そしてその結果は正義の社会代弁者から一個人に戻ってし
まった、ということであろう。
 ボフィン氏は、いわばGreat Expectationsにおけるピップの立場をそのまま継承
した形で設定されている。つまり「額に汗して働く」階級の人間が働かずして
金銭が手に入る富裕の階級へと、突如階級の移行に見舞われる。ピップはもと
の労働者へも、だからといってジェントルマンの階級のどちらにも帰属できな
くなった。それに対してディケンズはボフィン氏には新たな人間関係を構築さ
せて、帰属するコミュニティを何とか持たせようとする。具体的には言わば息
子格のロークスミス、養女にしたベラ、文盲のボフィン氏にとってはそのコン
プレックスの代償として参加させるウェッグ、そしてジョンの身代りに孤児を
養子にしようとすることで、この疑似ファミリーを完成しようとする。この人
工のコミュニティは、階級の移行による孤立化を何とか喰い止めようとするボ
フィン氏の衝動ばかりでなく、今転がり込んだ財産は言わば天から降ってきた
ようなもの、しかもそのお金も元を糺せばゴミから成した実体のないものだ、
という性質を本能的に感じとっており、それを形にして実体としたいというの
が疑似コミュニティ形成の動機でもあるわけだ。
 しかしながら、所謂人工のコミュニティはあっけなく崩壊する。理由は、こ
のコミュニティはまがいもので、構成員間にマナーズが成立しえなく、各々が
アイデンティティを失っているからだ。ボフィン氏は守銭奴という仮面を、ジ
ョンはロークスミスという仮面を各々被っている。ベラは善良な父を持つ実家
の本来のコミュニティと、このお金を基盤とする人工コミュニティとの間を絶
えず出人りし、鏡に向かって誠実さというものを問い続ける。
 ボフィン・ストーリーは根本的にfairy taleを枠構造にしている。ボフィン氏は
実は守銭奴ではなく良い人であって、ベラが一文無しと結婚したはずの夫の正
体は実はお金持のジョン・ハーモンで、一家はその後幸せに暮らしたとさ。し
かもお金以上に愛情が大切なのですよ、という教訓のおまけも忘れてはいない。
 社会や結婚という制度だけはがっしりとありながら、その内側では解体した
人間関係、ことに家族関係、孤立した人間たちにもう一度mutualな人間関係を
何とか再構築しようとしたのがOur Mutual Friendのディケンズの狙いではない
だろうか。
 けれども裏をかえせば、mutualな人間関係などというものは何処にも存在しえ
なく、ブラドリー・ヘドストーンのように人の心に深入りすれば痛い目をみる
から、fairy taleの幸福な登場人物たちのように孤独な人間たちはものうげにその
役を演じるのだ、これが18世紀から20世紀までを駆け抜けたディケンズの
哀しい結末ではないだろうか。

『リトル・ドリット』における「窓」
田中孝信

 初期の作品以来閉塞空間とその周囲の世界との関わり合いに魅せられてきた
ディケンズにとって、内と外という2つの世界を隔てると同時に結び付けるも
のとして境界、通路の2つの役割を担う窓は、自ずと興味深いものとなった。
特に、監獄をライトモチーフとする『リトル・ドリット』ては、登場人物の多
くが各自の精神的牢獄に幽閉され心の窓を閉ざしているのを反映して、窓の境
界としての側面が強調されている。窓のこうした働きが、閉鎖空間に囚われた
人々の外界への態度と密接な関係を持っているのである。
 まず第一に、窓から外部の無限性に心引かれることなく、内部の自己を中心
とした秩序ある世界に閉塞するのを好む人物が存在する。この範疇にはマルセ
イユ監獄のリゴーや、マーシャルシー監獄のウィリアムも属するのだが、彼ら
よりもさらに閉塞空間ヘの惑溺が深まり、家屋の目たる窓を閉ざすことで、心
の窓をも完全に閉ざしているのがクレナム夫人なのである。朽ちかけた家の薄
暗い部星という道徳的牢獄の中に篭る彼女にとっては、外界こそが精神的安定
を奪う牢獄となる。
 次に、過去の母親による宗教的迫害の後遺症に悩むアーサーや、外部社会を
隔てるマーシャルシー監獄の内側にのみ安息を見出すエイミイにとって、窓は
夢想の場となる。彼らは窓外に目を向けながらも、外界それ自体を見てはおら
ず、自己の内面に没入しているのである。外界は彼らの内面を映し出す鏡とす
ら言えるわけである。
 第三に、ドリット一家に代表されるような大陸の旅行者達は、馬車の窓から
実際に外の風景を見遺る。ただ彼らは、その際、外界との間に距離を設定する
ことで、現実社会と完全に融合するのを拒むのである。この空間的距離は、乞
食もまた旅人に快い感情を喚起する点に着目すれば、階級的距離ともなる。距
離は、上流・中流階級が自らの社会的地位の安全を計るために生み出した産物
なのである。
 これら3つに共通するのは窓の境界としての働きなのだが、作者は最終的に
窓の持つ通路としての役割を強調する。窓を媒介とした内と外との隔絶は主人
公アーサーによって打破されるのである。ウィリアム同様マーシャルシー監獄
に入獄した彼ではあったが、そこにとどまることは許されない。F氏の伯母の「奴
を引き摺り出して来い。窓から放り出してやる!」という言棄が、それを最も
象徴的に物語っているであろう。エイミイとダニエルに助けられて社会参加を
達成する彼の姿には、逃避を希求しながらも社会参加を肝要なものとするディ
ケンズ自身の自戒の念が込められているのだと考えられる。現実社会という「迷
路」を生き抜き、そこに実現可能な理想的生活を発見しなければならないと、
彼は『リトル・ドリット」において明確に認識するに至ったのである。
(以上の2編は春季大会での発表の要旨である)

ディケンズと読者
宇佐見太市

 村上春樹の『ノルウェイの森』の主人公「僕」が寮で知り合う「永沢」の読
書観は、かなり個性的なものである。
	・・・彼(永沢)は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、
死後30
	年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そう
いう本しか
	俺は信用しない、と彼は言った。「現代文学を信用しないというわけじ
ゃないよ。
	ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費や
したくないん
	だ。人生は短い」(上巻、講談社、57頁)
こんな「永沢」が挙げた好きな作家の中に、バルザック、ダンテ、ジョゼフ・
コンラッドと並んで、ディケンズが入っている。おそらく「永沢」は、時間的
にも空間的にも大きな広がりを持った人間棋様を描き切る大河小説の作家に心
が惹かれたにちがいない。
 評論家百目鬼恭三郎氏はディケンズの『荒涼館』を評して次のように言う。
	・・・『荒涼館』は広大で暗淡とした展望を読者に与えるから、これを
読んだあと
	では、日本の現代小説は綴り方としか感じられなくなるにちがいない。
(『乱読す
	れば良書に当たる』新潮社、227頁)
 日本の文学風土には、ややもすると、長篇小説よりはむしろ短篇小説の中に
小説の美学を見い出そうとする向きがあるにもかかわらず、「永沢」も百目鬼
恭三郎氏も、先ずはディケンズの長篇の持つ、息の長さとスケールの大きさに
驚嘆せずにはいられなかったようである。2人は本当に、ディケンズ作品の良
き読者と言えよう。こんな人たちと出会うと、なんだか嬉しい気持ちにさせら
れる私である。

米田一彦氏追悼
宮崎孝一

 小池滋氏から米田さんが亡くなられたことを電話で知らされたのは、7月3
0日の早朝だった。小池氏には京都の松村昌家氏から知らせがあったのだとい
うことだった。葬儀には小池氏が出席して下さるとのことなので、私は取敢え
ず御遺族宛ての弔電を打った。後に新聞で見たところによると、逝去されたの
は30日午前2時10分、享年76歳ということだった。
 小池氏の電話をいただいてから、私の胸には米田さんに関する様々なことが
次々に浮かんだ。
 初めて米田さんにお会いしたのは今から30年余り前、東北大学で日本英文
学会大会が催され、19世紀イギリス作家のリアリズムについてのシンポジウ
ムが行われたときだった。海老池俊治氏の司会で、数人の発表者のうち、米田
さんはサッカレーについて語り、私はディケンズのことを話したのだった。こ
の準備のための話し合いの段階から既に私は米田さんの気取らぬ、しかも、思
う所ははっきりおっしやる人柄に惹かれるのを感じた。 昭和30年には、関
西方面の研究者を同人とする「英国小説研究」が創刊され、米田さんはこのグ
ループの中心的執筆者であられた。初期の頃に載せられた「ディケンズをどの
ように読むか」とか「サッカレーをどのように読むか」などの文章は、その知
識の新鮮さにおいて、また、方法論の探求の真剣さにおいて、後進に大きな刺
激を与えてくれた。「英国小説研究」は延々として今日まで発行が続けられ、
多くの同人たちの多方面にわたる力作が、我が国のイギリス小説研究の発展に
大きな貢献をしてきたが、これも米田さんの柔らかく強い指導力によるところ
が大きかったのであろうと思う。
 内山正平氏の首唱によって昭和45年にディケンズ・フェロウシップ日本支
部の創設が企画されたとき、米田さんは率先してこの計画に賛同して下さり、
会が発足してからは、副支部長として、会の運営に献身され、殊に関西方面で
大会が行われる度に、会場の設定から、プログラムの内容の細目にわたるまで
万端お心を配って下さった。また、東京で総会が開かれるときは、万障を排し
て上京され、お忙しいときは会の終了後、日帰りで西の宮へお帰りになること
も何度かあった。大会の後の懇親会で、酒が入ってからの米田さんのヒューマ
ーに富んだお話しぶりは、会の雰囲気を和ませるのに絶大な力があった。米田
さんは関西弁を好んで使われたが、それがお話を一層味のあるものにしていた。
ふと、「よねやんはなあ、あまり飲みはったらあかんのやで」と親切な小言を
言った浪速の何所だったかの飲み屋のおかみの口調なども想い出されるのであ
った。
 私の拙い著書や訳書などをお贈りするたび、米田さんは必ず心のこもったお
手紙を下さった。その言葉遺いは優しいが、内容は決して甘いものではなかっ
た。容赦せぬ批評精神に接して、私は参ったと思い、しかし、はっきりものを
言って下さる先輩のいることを有難く思った。
 その他の折々に下さるお手紙に、この頃は温かさと共に一抹の寂しさが漂う
ようになっていたように思う。それは、米田さんの愛されたサッカレーの文学
に通うような沈潜した趣であった。人間の晩年についての率直な感懐が述べら
れていることなどもあって、私ははっと胸を突かれる思いだった。
 米田さんは心から文学の好きな人だったのだと思う。お書きになるものも、
いわゆる英文学者の、こちたき研究とは類を異にしていた。米田さん、これか
ら天国で、思う存分好きな文学に遊んで下さい。

小松原茂雄さんの思い出
小池滋

 小松原さんを初めて知ったのは昭和26年の4月、私が東大英文科の研究室
におそるおそる入った時である。小松原さんはその年の3月に英文科を卒業し
たばかり、卒業論文が大変優秀だったので、即座に研究室の助手として残るよ
うにと、先生方からすすめられた、とかの噂だった。しかも、しばらくしてそ
の卒業論文が、ディケンズの『リトル・ドリット』についてのものであると知
った時、私の興味はかきたてられた。
 それ以来、学生として、私が大学を出てからは同じディケンズに興味を持つ
後輩として、私は小松原さんに随分お世話になった。かなり親しくなってから、
当然のことながら私は、小松原さんの卒業論文について、いろいろ質間したも
のである。しかし、誰もが知る通り、小松原さんはとてももの静かで謙虚な人
であり、しかも芯の強い人だったから、穏やかな口調ではあったがきっぱりと、
ごく大まかな内容を洩らしてくれただけで、とても私には「読ませて下さい」
と言う元気は出せなかった。
 というわけで、小松原さんの『リトル・ドリット』論は、私にとって幻の名
作で終ってしまった。それからずっと後になって、『ドンビー・アンド・サン』
を完訳なさったらしいと、これも噂を間き、早く読みたいと待ちこがれていた
のに、結局刊行されることなく、これも幻の名作となってしまった。「あの噂
は真実ですか。翻訳はどうなったのですか」と、面と向かって尋ねる勇気が出
なかった。穏やかながら、何か私に躊躇させるものがその態度の中にあったか
らである。
 だから私の知る小松原さんのお仕事は、分量的にはごく少ない。しかし、例
えば『ハウスホールド・ワーズ』についての論文を見れば誰もがすぐにわかる
ように、着実で程度の高いものである。それを知っているからこそ、ますます
幻の名作を見たいという衝動がつのって来る。そのうちに、図々しく蛮勇をふ
るって、質問をしようと思っているうちに、遂に機会を逸してしまった。私は
自分の意気地のなさを悔んでいるのだが、仕方ない。私自身のためにも、日本
のディケンズ研究のためにも、本当に残念なことであった。

米田一彦氏
ディケンズ・フェロウシップ日本支部副支部長として、会の発足以来御尽力下
さいました、神戸大学名誉教授米田一彦氏は、1989年7月30日御逝去な
さいました。

小松原茂雄氏
大会での御講演、また「Donbey and Son」の世界」その他の司会等で御活躍下さ
いました、東京大学教授小松原茂雄氏は、1988年11月30日御逝去なさ
いました。
 昨年度はお二方をお送りしなくてはなりませんでした。まことに悲しく残念
なことでございます。謹んで御冥福をお申祈りし上げます。

ギャズヒル・プレイス購入に日本支部も協力
 ディケンズ・フェロウシップ・ロンドン本部では、ディケンズが1857年
から所有し(56年に購入金を払っている)、60年以来定住した、ケント州
ロチェスターから2マイルほどロンドン寄りにある、ギャズヒル屋敷を買い取
るため資金援助を訴えていたが、日本支都としては、それに応じ、(1) Hon. General 
Secretary, Alan S. Watts氏著Dickens at Gad's Hillを有志が購入する、(2)会員から
の寄付を募る、(3)つとめて多くの人に趣旨を伝えて募金を勧誘する、(4)前記(2)
とは別に支部から2、000ポンドの寄付をするということになった。
 ギャズヒル・プレイスは1779年に建てられたものであり、付近は『ピク
ウィック・ペイパーズ』『大いなる遺産』その他の作品と関係の深いところで
ある。

尾崎誉氏のロバート・シーマー展

 1989年2月13日(月)から25日(土)まで(日曜を除く)、銀座5
−5−13、並木通り坂口ビル6階、ぼくの空想美術館で、『ピクウィック・
ペイパーズ』の最初の挿絵画家ということでおなじみのロバート・シーマー(1
797ー1836)の風刺画・エッチング展が開かれた。この美術展はアマチ
ュア画家尾崎誉氏の企画で行なわれたもので、絵はすべて同氏が所有なさって
いるものである。1846年にR・B・ピーク(Peake)の『ロンドンっ子スポー
ツマンの冒険』(The Adventures of Cockney Sportsman)という本が出版された。
その本は「スノブソン氏の四季」と題して、秋の部、冬の部、春の部、「スノ
ブソン氏の四季(第2部)と題して、春の部続編、夏の部、秋の部からなってい
るとのことであるが、その本の中に口絵1枚、挿絵89枚、章末に小さなカッ
ト2枚が入っていて、以上92枚の絵が展示されたのである。
 この美術展で配布されたパンフレットには、小池滋氏の「ロバート・シーマ
ーについて」という、イギリス風刺画の伝統を受けついでいて、『ピクウィッ
ク・ペイパーズ』では、若いディケンズとのトラブルのあと、その本のための
数枚の絵を残して自殺したシーマーについての紹介文、同氏がキャプションを
つけられた90枚の絵が載せられている。そのエッチングの一部を次のページ
に紹介しておく。
 なお『ピクウィック・ペイパーズ』のシーマの絵は、「旅役者の物語」の絵
で終わっている。ディケンズが書き直しを求め、改められた絵であるが、その
直後彼は自殺したのであった。(T・N)

日本におけるディケンズ関係ならびにフェロウシップ会員の著訳書等
川本静子・北條文緒編 「ヒロインの時代」
 ジョージ・ムア作北條文緒訳 『エスター・ウォーターズ』1988年
 トマス・ハーディ作川本静子訳 『日陰者ジュード』1988年
 ジョージ・ギッツング作太田良子訳 『渦』1989年以上国書刊行会
臼田昭訳『サミュエル・ピープスの日記』(第3巻1662年)1988年 国
文社
中西敏一・亀井規子・青木健・野畑多恵子編 『Sketches by Bozーロンドンの情
景』(執筆者宮崎孝一・青木健・間二郎・西條隆雄・亀井規子・松村昌家・横
川信義・野畑多恵子・臼田昭・小池滋・中西敏一)1989年 開文社出版
吉田孝夫著『ディケンズ名言集』(1) 1989年 晃学出版
村石利夫他著『ユーモア例語事典』 1989年 ぎょうせい出版
神山妙子編『愛と結婚−−イギリス小説の場合』(クランメル房子「『ダニエ
ル・デロンダ』−−女性とめざめ」ほか)1989年 国研出版
松村昌家著 『ディケンズの小説とその時代』 1989年 研究社出版
毎日コミュニケイションズ編『外国新聞に見る日本』(本編・原文編第1巻1
852ー1873)(執筆協力者横川信義・青木健・中西敏一)1989年 毎
日コミュニケイションズ

編集後記
 今年度からは4ペ−ジ増の28ページと考え、寄稿論文の原稿枚数を従来の
2、3枚から5枚程度としましたが、徹底していなかったこともありましてか、
ほぼ従来通りの24ページで終わってしまいました。来年度からは28ページ
と考えています。研究発表の要旨は従来通り2、3枚程度です。
 8月にテムズ川で船が沈没し、多くの方が亡くなられました。場所がサザッ
ク・ブリッジの近くで、『互いの友』の冒頭の都分、テムズ川を漁って生計の
資を得ている、ナイトバード、ガファ・ヘクサムと、その娘リジーが小舟を浮
かべている場面が頭に浮かんできます。事故のない文学と歴史の町ロンドンで
あることを願う次第です。(中西)

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

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