ディケンズ・フェロウシップ会報 第十四号(1991年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XIV

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部

ディケンズ・フェロウシップ日本支部
1990年10月-91年9月
総会
1990年10月20日(土)午後2時より
於成城大学5号館会議室
行事
1.総会
2.講演
	司会 松村昌家氏
	講師 井野瀬久美恵氏:ディケンズ時代のミュージック・ホール
		――「生き抜く」労働者から「息抜く」労働者ヘ
3.研究発表
	司会 久田晴則氏
	発表者 吉田孝夫氏:ディケンズを訪ねて
春季大会
1991年6月15日(土)午後2:00より
於宮城教育大学管理棟3階大会議室
行事
1.開会の辞
	支部長 小池滋氏
2.シンポジウム2:15〜3:15
  テーマ The Old Curiosity Shop――新しい読みの可能性を探る
	司会 荻野昌利氏
	講師 原英一氏「人形劇から人間劇へ」
	   藤田博氏「夢の中ヘ――d史* vuとしてのネルの旅――」
	   小野寺進氏「The Old Curiosity Shopとファミリー・ロマンス」
3.講演 3:20〜4:20
	司会 増淵正史氏
	講師 カリフォルニア州立大学ハリー・ストーン教授
     「ディケンズとカニバリズム」


二代目の弁
小池滋
 宮崎孝一先生の後を承けて、ディケンズ・フェロウシップ日本支部の二代目
の支部長の仕事をやらせて頂くことになりましたが、一九七〇年の創立以来、
二〇年以上もの長い間にわたって、前支部長がきちんとレールを敷いて整備を
して下さってありますので、私はその上を走って行けばいいという、大層恵ま
れた立場にあります。宮崎先生のこれまでのご苦労に深く感謝しております。
 私は鉄道が大好きな人間でありますから、レールのあるところなら、どこへ
でもスイスイと行きますが、調子に乗って暴走し、ブレーキがきかなくなるこ
ともあるかもしれません。どうかフェロウの皆さん、絶えず注意の目を注いで、
必要があったらいつでも大声で、「おうい、そこの下の人、気をつけろ!」と
叫んで下さい。
 この会はあくまで「フェロウシップ」つまり同じ友の会なのですから、いち
おう仮に日本語で「支部長」と名がついていますが、別に高い所に陣取って威
張れるわけはないのです。原語では「名誉書記」つまり無給の事務担当係とい
うことなのですから。
 フェロウの皆さん、どんどん遠慮なく声をかけて下さい。また手をかして下
さい。皆で力を合わせて会を担いで推進させて下さい。全員がフェロウシップ・
ポーターとなって下さい。そう、ジョリー・フェロウシップ・ポーターズとい
うのは、飲み屋の名前でしたから、一緒に盃をあげ、歓談することも忘れない
ようにしましよう。
 私はアビー・ポターソン女史のように独裁権力は振わぬつもりですし、それ
だけの貫禄もありませんから、どうかご安心を。でも、万一その気配が見えた
ら、遠慮なく警告を発して下さい。

『ピクウィック・ペイパーズ』とお屋敷文学
福村絹代
 川崎寿彦氏はカントリー・ハウスを讃えるお屋敷文学が、英文学ではベン・
ジョンソンを嚆矢として、十七世紀前半の王党派によって歌われたサブ・ジャ
ンルであり、これがアレクサンダー・ポープ及ぴジェーン・オースティンなど
を経てイーヴリン・ウォ−のような現代の作家に至るまで綿々と続いている、
と論じている。(『薔薇をして語らしめよ――空間表象の文学』、名古屋大学
出版会)。ディケンズはこれには縁が薄いように思われるが、『ピクウィック・
ペイパーズ』のファーム館にこの典型が見られる。この館はピクウィックの一
行がクリスマス・イブを祝う歓楽宮でもある。その描写にはお屋敷文学への示
唆が見られる。

ファーム館の最高の居間は、高い炉づくりとひろびろとした煙突のついた、り
っぱな、ながい、浅黒い羽目板をはった部屋で、その煙突は新式特許の馬車を
車輪ごととおしてしまうくらいひろいものだった。・・・じゅうたんはめくら
れ、ろうそくはあかあかと燃え、火は炉でパチパチと燃えさかり、陽気な声と
明るい笑い声は部屋中に鳴りひびいていた。もし古いイギリスの郷士たちが死
んだときに妖精になっていたら、そこは彼らが酒宴を張りそうな場所になって
いた。(北川悌二訳)

 郷士たちの妖精の酒宴への言及がそうである。カントリー・ハウスの暖炉の
煙突は広かったそうであるが、馬車がとおせる程の広さ、とはディケンズらし
い誇張である。お屋敷は酒池肉林の大盤振舞いの舞台となったそうである。さ
てファーム館では「太古の時代から老ウォードル氏の祖先によって守られてき
たクリスマス・イーブ」の伝統に従って、家族、親戚一同、ピクウィックの一
行が、召使も含めて飲み食いし、ダンスや遊びをし、お互にキスの雨をふらし
合う大賑を見せる。ここでは酒池肉林より、クリスマスの友和に重点が置かれ
る。お屋敷文学に見られる歓待と豊饒がクリスマス的な歓待と、心の豊饒に代
っているところにディケンズ的特徴がある。
 しかしディケンズは後の作品ではこのようなカントリー・ハウスの賑は二度
と書かなかった。彼は社会問題、心理描写等暗い面に関心を深めるにつれ、そ
のような楽天主義は薄れていった。ピクウィックの最後も監獄を出た後は田舎
への静かな引退で終る。これは後の作品にもある程度パターンとなった終り方
であり、腐敗せる都市の喧噪を離れての引退という形となる。『寂しい家』の
主人公達の終り方がそのよい例である。

"In worldly matters I'm a hild," 『懐かしい年への手紙』の「僕」のある友人とHarold 
Skimpole
福島光義
 昨年の夏休みであったと思うか、宿題を課された児童のように、何かを読ま
なくてはという思いに駆られて漸く読了したのが、大江健三郎の『懐かしい年
への手紙』(講談社、一九八七年)であった。最近は読書量が落ち、読み始め
ても長い間隔を置いて読み継ぐという癖がついて、なかなか一気には読めなく
なってきている。作家にとっては歓迎されざる読者ではないかと心配される。
この作品の場合も長い休みが来ると読み、又次の休みが来ると読むといった具
合であった。
 今回筆をとったのは再び夏が巡って来て『懐かしい年への手紙』の中に確か
ディケンズについて言及された箇所がある筈であると、ふと思い付いた為であ
る。ところがそのページをメモしておかず、カトル船長の例の有名な文句を思
い出したが後の祭り。手当り次第ページを繰って探し出すしかあるまいと観念
する。ところが偶然開けたページにディケンズの英文の引用、即ちBleak House
からの一節を見付けた時は、思わぬ幸運に恵まれたかのような気分になった。
 場面は、語り手である「僕」が、兄に、独特の風姿と生活のスタイルを持っ
ているが、「僕」より更に無邪気で他人のポケットの金を平気であてにする秋
山君という友人のことを話すと、英文学に詳しいその兄が本棚からカヴァーつ
きの厚い文庫本を取り出し、その英語のページをさかんに繰った後、「僕」自
身と秋山君の金銭感覚について教訓的な一節を読んで聞かせるところである。
少々長くなるがBleak Houseからの一節を含む前後を引用しよう。それはロンド
ン警視庁の警部が小説の語り手の娘に、無邪気に他人の懐をあてにするタイプ
を批評する会話の一節だった。
Whenever a person says to you that they are as innocent as can be in all concerning 
money, Iook well after your own money, for they are dead certain to collar it, if they can. 
Whenever a person proclaims to you "In worldly matters I'm a child," you consider that 
that person is only a-crying off from being held accountable, and that you have got that 
person's number, and it's Number One.
 このようにして僕はディケンズの『荒涼館(ブリーク・ハウス)』をギー兄
さんから借りて読み、この一節に秋山君に対してのみならず、自分にも直接働
く毒を読みとったように感じた。むしろその思いと対抗するために、僕はこの
一冊を夏休みの間に読みとおすことをしたのだ。もっともエスタという女主人
公か一人称で語る平易な章だけはていねいに読み、あとはとばし読みをする具
合で、それでもこの小説がはじめて原文で読みとおしたディケンズとなったの
だった。(二〇二−三頁)

 ロンドン警視庁の警部とは勿論バケットで、無邪気に他人の懐をあてにする
タイプとはハロルド・スキムポールであることは敢えて指摘するまでもないで
あろう。結局バケット警部は金銭感覚に欠け他人の好意をあてにしている手合
いを厳しく批判している。ディケンズの読者なら既にお分かりと思うが、大江
が引用しているバケット警部の言葉はBleak Houseの第五十七章(The Oxford 
Illustrated Dickens. 七七五頁)にあり、レイディ・デッドロックを追跡しながら
警部がエスタに話しかけている所である。この部分を引き合いに出しているギ
ー兄さんは、秋山君がスキムポールのようであると暗に仄めかしているのであ
る。こういった秋山君と付き合っている「僕」に対する教えは一時的なもので
はなく、後年この友人の「僕」に対してとる行為と態度とを予告したものとな
る。作者はこのことでディケンズに再度言及している(二八四頁参照)。
 ディケンズの小説の一節に秋山君と自分に直接作用する風刺が隠されている
ことを感知した僕は、この思いに対抗するため、この小説を読む決意をする。
「この小説がはじめて原文で読みとおしたディケンズ」となったのは結構なこ
とであるが、三人称で語られる物語の方はとばし読みというのはいささか問題
がありそうだ。しかし読み方は十人十色。大江の小説が一人称で語られること
からして、語り手の「僕」が、やはり一人称で語られるエスタの物語の方をよ
り関心をもって読んだというのも無理からぬことである。確かにエスタの語る
第三章からなら抵抗なくディケンズの世界に入れそうである。かって学生と共
にこの小説を読んだ時に、第一章から教師も学生も座礁し四苦八苦した経験が
あり、今度これを読む時は第三章あたりから読み始めたらよいなと学生達に口
走ってしまいそうである。

一九九〇年総会における講演
司会者の弁
松村昌家
 十月二十日に開かれた総会では、『大英帝国はミュージック・ホールから』
(朝日選著)で一躍脚光をあびた井野瀬久美恵氏の講演をきくことになった。
題して「ディケンズ時代のミュージック・ホール」――「“生き抜く”労働者
から“息抜く”労働者へ」という副題のついた、まことにイキのよい斬新な内
容のお話であった。なお、氏はその時点で甲南大学への転任が確定していたこ
とを付記しておく。

ディケンズ時代のミュージック・ホール――「生き抜く」労働者から「息抜く」
労働者へ――
井野瀬久美恵
 チャールズ・ディケンズが活発な執筆活動を展開した一八四〇年代、五〇年
代のイギリスは、新しい時代を迎えつつあった。一八五一年、記念すべき第一
回万国博覧会のこの年、一八〇一年から十年ごとに行われてきた人口調査は初
めて、都市人口が農村人口を上回ったことを記録した。その後のイギリス社会
に到来した新しい時代――それは文字通り、ディケンズがこだわり続けた都市
の時代であった。
 ちょうどそのころ、次のような求人広告が、ロンドンの街をにぎわせている。

求む、バイオリン弾き一名、歌って踊れる女性一名。
毎晩百人から二百人が集まる部屋で娯楽を提供してくれるならば、当方報酬に
いとめはつけない。妻と子ども二人あってもいっこうにかまわない。
応募先「ノーフォーク公爵亭」

 この求人広告に殺到したのは、ディケンズの同時代人でロンドンの貧民調査
で知られるへンリー・メイヒューが"street performers, artists and showmen"と分類
した「街頭の人びと」であった。この動きを、ディケンズが主催する雑誌
Household Words(vol.XII.1856)の論文「貧しき隣人たちの音楽」(寄稿者George 
Dodd)は、労働者たちが都市化する社会にふさわしい娯楽として音楽を求めて
おり、それが、民衆を取締る当局の政策によって娯楽が室内化したことと相ま
って娯楽の商業化を進行させつつある、と分析している。この新しい時代の潮
流に乗って、第一回万国博覧会の翌一八五二年、ロンドンの片隅、ランベスに
生まれたのが、「貧しき隣人のための音楽」と酒の娯楽施設ミュージック・ホ
ールである。パブの余興から発展したこの娯楽施設は、労働者たちの求めに応
えられる空間として、しかも「酒と演し物」の場を取締ろうとする当局に対す
るアリバイ的施設として、全国の都市に急速にその数と規模を拡大していった。
そして、一八九〇年代から一九〇〇年代、大衆娯楽の殿堂として一世を風靡す
るとともに、チャーチスト運動で破綻した労働者の階級文化再編成の核となっ
たのである。それは、ミュージック・ホール第一号店「カンタベリ」の経営者
で「ミュージック・ホールの父」と呼ばれたチャールズ・モートンが、ここを
パブとは異なる家族の娯楽施設にしようと、演し物の充実をはじめさまざまな
戦略を駆使し、商業娯楽化を徹底させた賜物でもあった。
 それまでパブの世界の延長でしかなかったミュージック・ホールに独自の文
化世界が確立するのは、ディケンズの時代からウォルター・ベザンドやジョー
ジ・ギッシングら新しい都市文学の時代へ、メイヒューの時代からチャールズ・
ブースの時代ヘ、そして歴史家E・J・ホブズボウムのいう「資本の時代」から
「帝国の時代」ヘとイギリス社会が大きく転換する一八七〇年代前後――ジョ
ージ・レイボーンが歌う「シャンペン・チャーリー」の大ヒットによって、都
会の酒落者を皮肉ったライオン・コミックス」なる新しいジャンルの曲が一大
ブームになったときのことである。
 このとき、中産階級の読者を抱えるディケンズ主催の雑誌All the Year Round
(25.Apr.1868)は、ライオン・コミックスを「俗語、隠語が多用され、ユーモ
アもペイソスもウィットもなく、ただただナンセンスでしかない」と批判し、
こんな曲に熱狂する労働者の嗜好は国民的問題である、と糾弾した。ディケン
ズの時代、酒の代わりに読書や鉄道旅行などの「理にかなった娯楽」を与える
禁酒運動を展開していた中産階級にとって、酒と演し物とが分かちがたく結び
ついたミュージック・ホールは、常に攻撃対象でしかなかった。しかしながら、
彼らが非難したナンセンスさこそ、「貧民のジャーナリズム」ブロードサイド・
バラッドに見られた社会風刺とは異なる、労働者たちの新しい自己表現の形で
あった。ミュージック・ホール文化には、それまでのように、労働者階級の不
満を上の階級に責任転嫁し、束の間のうさ晴らしをするような社会諷刺、体制
批判の調子はまったくない。それは文字通り、自分たちのやり方で生活を楽し
んでしまおうとする、労働者の気晴らし文化なのである。「ライオン・コミッ
クス」は、労働者たちに田舎とは違う都会のライフ・スタイルを提示し、匿名
社会の都会に生きる彼らに「都会人であることの快感」ともいうべきアイデン
ティティを与え、一大ブームを巻き起こしたのであった。
 実際、ミュージック・ホールのなかでは、階級も、政治も、国家も、そして
大英帝国でさえも気晴らしであった。すべてを気晴らしにしてしまうことによ
って、ミュージック・ホールは、政治や国家、帝国を労働者たちに近づけたと
いえる。この雰囲気のなかから、一八七八年、露土戦争の時代、「バイ、ジン
ゴ!」というヒット曲のかけ声から、戦闘的な愛国心を意味する新しい英語
jingoismが生まれた。それに続くミュージック・ホールの一運の愛国的な歌は、
折々の時事問題、戦争を織り込みながら、イギリスが本国と植民地の連合体、
大英帝国の中心であることを歌い続けた。この時代、ミュージック・ホールは、
文字通り、労働者たちにとってもっとも身近な情報メディアであった。このメ
ディアを通じて、労働者たちは、「都会人であることの快感」を「イギリス人
であることの快感」へと押し広げていったのである。
 十九世紀末、娯楽の商業化を推し進めることによって徹底した娯楽性を追求
したミュージック・ホールのなかで、労働者たちは、ディケンズ時代の「生き
抜く」労働者から、「息抜く労働者」へと変貌を遂げた。時まさに、大英帝国
最後の春であった。

一九九〇年総会における研究発表
司会の弁
久田晴則
 吉田孝夫先生(滋賀大学)はディケンズを語学的な見地から研究なさってお
られ、『ディケンズのことば』等多くの著書・論考がございます。本日は先生
が10年余り前に滞英された折カメラに納められた写真をスライドで見せて頂く
ことになりました。周知のことですが、ディケンズは「特別通信員」として大
衆に、時代の様相とその中における人の生き様を刻々と伝え続けてきました。
従ってディケンズ文学は一つテキストの世界のみではなく、むしろそれは、ど
んな目や耳にも訴えるオーディオ・ヴィジュアル・アーツであることの方が有
意味な事実のようにさえ思われます。このたびのスライドを通して、ディケン
ズの特質が人々の心にいかに浸透してきたかその経緯の一端を目の当りにする
ことができると思います。

ディケンズを訪ねて
吉田孝夫
 ポーツマスには、チャールズ・ディケンズ生誕博物館がある。ディケンズの
生まれた寝台のかたわらには、小さな木製のゆりかごがある。隣室の窓からは
家並の向こうに港のクレーンが見える。この部屋に展示されているソファは、
ディケンズが一八七〇年六月八日に、ギャズヒル邸で意識を失って倒れた時に
横たえられたもので、翌日、この上で息を引き取る。ディケンズの義妹、ジョ
ージーナ・ホガースが、この遺品を保管するのに最もふさわしい場所として、
ポーツマス市に寄贈した。
 一八一七年、ディケンズ一家はチャタムに移る。彼が五歳から九歳までの夢
多き幼少時代を過ごした所である。彼の家の前の通りを登った丘の頂きには、
フォート・ピット女学校があり、下方の入江は雨にけぶっていた。チャタムに
隣接するロチェスターはディケンズが一杯で、数々の作品の舞台となったゆか
りの場所がある。ロチェスターの大聖堂と古城の間を道が走る。古城を背にし
た路傍の芝生に石碑が見える。
 This ground was originally part of the castle moat. 
Charles Dickens wished to be buried here.
 ディケンズは、隣接のチャタムから友達としばしばここにやってきて遊んだ
にちがいない。人の心のふるさとは、幼少時代の小さな想い出の中にある。
 ディケンズは湾曲のヴァイキング・ベイを白亜の崖から見下すブロードステ
アーズをこよなく愛した。通りを歩くと、彼の名前や作品名にあやかったパブ
や食堂がいたる所に目につく。駐車場の入口の看板には、右手にステッキ、左
手に鼻メガネのミコーバー氏が出ていて、駐車場の宣伝に一役買っていた。か
の有名なことば「年収二〇ポンド、年支出一九ポンド一九シリング六ペンス―
結果は幸福。・・・」の後に次のことばが添えられていた。
 「ミコーバー氏は今ではへイスナィング・サネット社でお金が節約でき、い
つも幸せです」
 今日はディケンズ・フェスティバルの最終日。ディケンズの作中人物がヴィ
クトリア朝の衣裳をつけて登場する。ロバのそばに立ったデイヴィッド坊やは
童話の主人公だ。姪のリトル・エミリーを求めてさすらいの旅に出るミスタ・
ペゴティーは疲れた黒い帽子をかぶり、寂しげだ。ブルズ・アイ(実際は褐色
の雑犬だったが)をつれた悪漢サイクスは買物かごのナンシーを棍棒で打つ場
面を見せてくれた。次の瞬間、サイクスが棍棒をこちらに振りかざし、肝をつ
ぶした。少々、いたずらが過ぎる。フィナーレは全員が行列をつくり、観衆の
見守るなかを各人が、その人物の特徴を生かしたポーズをとり、万雷の拍手を
あびた。

春季大会 シンポジウム
司会者として
荻野昌利
「The Old Curiosity Shopの新しい読みの可能性を探る」と題するシンポジウムが
九一年度春李大全の冒頭を飾って、緑に囲まれ、初夏の爽やかな風そよぐ宮城
教育大学の会議室を借りて催された。東北地方でディケンズ・フェロウシップ
が催されるのは初めての上に、司会を除いて講師はすべて仙台を中心にした東
北地方の出身者ということで、五〇名を上回る参加者に恵まれ大盛況であった。
時間の短かったことが残念だったが、大変に中身の充実したシンポジウムでは
なかったかと思う。これも大会運営に当たられた増渕正史氏を初めとする宮城
教育大学の諸先生の心尽くしの賜物だと深く感謝している。

人形劇から人間劇へ
原英一
 『骨董店』が提示する第一の問題は、想像力と形式との根源的な葛藤である。
貧困な想像力しか持たない凡庸な作家であれば、形式があることはむしろ救い
であり、作品を書くための大きな助けとなるであろう。しかし、たとえばディ
ケンズのようなけた外れの想像力を持つ作家となると、自己表現のための形式
との葛藤、最善の形式を求めての探求はきわめて深刻な問題であり、作品その
ものに大きな影響を及ぼさざるをえない。『骨董店』は、そのプロット構造、
人物造形の両面において、ディケンズの想像力が、その新たな表現形式を求め
て苦悩するありさまを形式的にも、また内容的にも如実に示す作品として大い
に興味深いものである。その葛藤は「人形」を軸として展開される。
 『骨董店』には芸人が種々登場するが、中でも「パンチとジュディ」の人形
劇を見せ歩く二人は、興味深い存在である。すでに指摘されていることである
が、キルプは、その性格、行動など多くの点で、パンチをモデルにしたもので
あるので、この小説全体を一種の「パンチとジュディ」劇であるととらえるこ
とも可能である。この人形劇的な性格は、実は他の登場人物の場合にもあては
まるのであって、主人公のネル、その祖父トレント、キットなど、はとんどの
人物が、内面性に乏しい人形的な存在であると言える。人形は生を持たないも
のであり、それが動くときでも(人形使いによって)擬似的な生を与えられる
のみである。だとすれば、彼らは死の国の住人であり、『骨董店』の世界はそ
もそも擬似的な生の世界でしかない。しかし、この人形たちは、骨董品の置か
れている店から出て歩きだすのである。それと同時に彼らの人形から人間への
変身が開始される。この変身は二つの方向をたどるが、それは小説のプロット
の二分化と一致している。少女ネルは、放浪の過程で単なる人形から金銭中心
主義の社会の犠牲者、現実のヴィトリア時代の子供としての生命と象徴性とを
与えられるにいたる。しかし、ネルは人間への変身を完遂しえない。社会的主
題は発展しないまま、ネルは人形としてその本来あるべき場所である美しい死
の床に還えるのである。一方ディック・スウィヴェラーは、詩人としての豊か
な想像力によってキルプらの死の仮面をあばき、「侯爵夫人」という一人の人
形的少女を救出し変身させる。彼の奔放な想像力によって『骨董店』の世界は、
人形劇から人間劇へと変身を遂げるのである。
 『骨董店』の二つのプロットは、ともに自らが置かれた死の世界を否定し、
より自由で生命力に溢れたプロットの創造をめざしているようにみえる。その
ような意味でこの小説はディケンズの初期作品に特徴的である、人形劇的世界
の中での人間的深淵への指向を、形式と想像力との葛藤が向かうべき方向を、
典型的に示しているものと言えよう。

夢の中へ――d史* vuとしてのネルの旅――
藤田博
 街が未だ眠りに包まれている夜明け近く、ネルはなつかしい骨董屋を後にす
る。キルプの魔の手を逃れ、醒めることのない悪夢の連続から抜け出すためで
ある。もう遙か彼方まで、悪夢として追いすがるキルプを置き去りにできると
ころまでやってきた、そう思って振り返ると、すぐ後ろに名状し難い独特の笑
いを浮かべてキルプが立っている。悪夢を断つべく道を急ぐネルの旅は、その
全体が途方もない悪夢に覆い尽くされているのである。
 一歩でも先を急ぎ、少しでもキルプに距離を置きたいネルの思いは、できる
限り遠回りを避けたいネルの思いと一つである。しかし、実際には、予想を越
えて大きく迂回する道を選んだがために、祖父が再び賭博に手を染めるという
現実に引き戻される残酷な旅である。醜悪なキルプに重なり合う醜い「金」か
らようやくの思いで逃れてきたはずのものが、どこか「見たことのある世界」
に舞い戻ってしまったことに驚きの声を上げ、思わず足を止めるネルである。
 人ごみを避け、同時に人ごみを行くネルは、歩きつづけざるを得ないネルで
もある。その点において、歩きつづけることを宿命づけられた旅芸人との近さ
がある。人形つかいのショートとコドリン、蝋人形師のシャーリー夫人と道連
れになるネルの旅は、偶然ではありえない。なつかしさと奇妙な安心感、同時
に得体の知れない不気味さとが漂う旅芸人と昼をともにし、夜をともにするこ
とで、どこか「元に戻ってしまった思い」に引き込まれていくネルである。そ
れは「見る者」から「見られる物」に変わっていく過程そのものといえる。通
りすがりの旅の者が見世物そのものへとなり変わっていく道筋である。見られ
る自分を見る自分を見る、反転する自意識のなか、ぞっとする思いに駆られ、
思わず目を覚ますネルがそこにいる。
 ネルが目を覚ましたのはどこであったろうか。旅の宿であり、シャーリー夫
人の馬車の中・・・であるのは確かながら、それが同時に、遥か彼方に置いて
きたはずの骨董屋の暗い一隅という気がして仕方がないのは何故であろうか。
焦る思いだけが先を行き、体が置き去りになる急ぎ足のネルが、遠近感を欠い
た、ねじれた世界を行くなか、d史* vu(既視感)に近い奇妙な思いを味わいつ
づけるのは、慣れ親しんだ骨董屋の品々、どこかグロテスクで、それでいてど
こかなつかしいその数々が、蝋人形は当然のこと、旅芸人やキルプその人と二
重写しになって見えてくるために他ならない。遠くまで行けば行くほど、ネル
の骨董屋はついてまわる。d史* vuとは、夢と現実が交錯し、遠さと近さが交錯
する、そのあわいにこそ現れるものだからである。その意味において、大きく
ループ状を描いて元に戻ったかに見えるネルの旅は、骨董屋という出発点を一
歩も出ることのなかった旅ともいえるのである。

The Old Curiosity Shopとファミリー・ロマンス
小野寺進
 ファミリー・ロマンスとは、元来フロイトの用語で、子供が空想活動におい
て自分の両親をもっと偉い両親に置き代えようとする自己の出生にまつわる幻
想である。マルト・ロベールは、それを敷衍し、近代小説の起源からその発展
に至る推移をその精神分析的図式に類比させ、子供が両親に対する性の違いを
認識するのを境に、前段階を「捨て子プロット」、後段階を「私生児プロット」
に分類する。今回は、ネルの物語を構築しているのはネル白身の幻想である故、
最終目標として権力の座に近づく為に結婚という手段で頼りがいのある男性へ
の帰属ないしは同盟を結ぶという女性モデルを指定した上で、「私生児プロッ
ト」としてのファミリ−・ロマンスの象徴構造の観点から『骨董屋』を考えて
みた。
 物語においてネルを女性モデルとしてみた場合、不整合であることは明らか
である。というのは、ネルには何ら社会的権力志向の欲望などなく、しかも彼
女自身結婚という手段で上昇を遂げることはないからである。むしろネルの幻
想における願望は、死ぬことで現実世界からの解放と無垢のまま天上へ上り永
遠の命を得ることにある。ファミリー・ロマンスの象徴構造は、こうしたネル
の物語が女の成り上がりの物語とはなりきらずに、無垢な少女の物語として成
り立っていることを一層明らかにする。しかしその一方で、女性モデルでは起
源において確実な母親は不在である為、当然目的達成の妨げにならないはずに
もかかわらず、男性モデルでは不可欠な常に不確実な父親の存在が、ネルの物
語におい
て、自己の願望を成就する妨げとして立ち現われるのである。賭博狂へと変貌
したトレント老人は、ネルにとって幻影としての悪の父親像の再来となる。こ
れを克服すべくネルは幻想の中で父親殺しを行使すると共に、父親像を不在の
位置に排除する。ネルが天使へと上昇し、願望成就を可能ならしめるのは、こ
のように、本来女の物語となるべきところに男の物語が介在することによって
である。
 ネルの造型が義妹メアリー・ホガースであるように、賭博狂のネルの祖父の
造型がディケンズの実父ジョン・ディケンズにあることを忘れることはできな
い。トレント老人の不在がジョン・ディケンズの父親としての責任と義務の欠
如を示す象徴となっているように、ディケンズが少年時代靴墨工場に出された
時の屈辱の中に、ファミリー・ロマンスの幻想がその実人生において内在して
いたと看取される。
 祖父を救おうとする反面、祖父を拒否せんとするネルの内に潜む相反感情は、
ネルがメアリーと自己の過去に対するディケンズの思いという二重の機能を担
う存在であったことを示す。それはまた、無垢なネルの物語が男の物語の介入
によってディケンズの物語となっている所以でもある。

ディケンズとカニバリズム
ハリィ・ストゥン教授講演要旨
(文責・間二郎)
 ディケンズの一連の作品には人肉嗜食に連なる表現が陰微な形でひそんでい
る。この不気味な要素――カニバリズム――へのディケンズの関心と不安感は、
彼が幼い頃に聞いた、あるいは読んだ物語りや体験の恐怖に深く根ざしている。
「乳母のお話」の中の、キャプテン・マーダラーや船大工のチップスの話、た
んすの上に並べられた四人の死産児と肉屋の店との不気味な連想、その他「ア
ラビヤ夜話」、「魔神物語」、旅行記類、「週刊恐怖」誌の墓あばきの話しな
どをしこたま吸収した結果、この感性鋭い少年のなかには、食人や殺人の行為
を恐れる一方でそれに魅了されるという感性が生れたこの、いわば「恐怖の魅
力(fascination of repulsion)」は、人間の中に潜む害意や残酷さを暴露糾弾する
源泉となり、その象徴としてのカニバリズムは終始作品の中に姿を現わしてく
る。
 「かわいい」美女メアリーを食べかねないデブ少年――肉屋の店の子豚と赤
ン坊の連想に悩むニクルビー氏――デイヴィドが母と弟に対する複雑な思い、
彼がドーヴァー行の途中で出会う古着屋のまさに食人種的な脅し――ミート・
プディングを憎むべき母親に見立ててナイフを突き刺し、引きちぎり、むさぼ
り食う〈赤い顔の男〉「夜の散策」――『大なる遺産』冒頭部のマグウィッチ
の脅し、ミス・ハヴィシャムの「みんなが(死んだ)私を見る(フィード・オ
ン・ミイ)[食べる]時…」という不気味な言葉、等々カニバリズムのイメジ
は限りもない。
 しかしこのカニバリズムは暗い背景になっていて読者に意識されないことが
多い。読者は、〈認識〉するよりもむしろ〈反応〉するのであり、このモチー
フは雰囲気、含意、暗示となって、人生に対するディケンズの暗い思いを感じ
取らせる手段になっている。人肉嗜食の視点はディケンズの芸術の母胎(メイ
トリックス)とも言うべきものでもあり、明るいヒューモアも、豊かなメタフ
ァーも、透徹した社会批判も、作品の暗い低音部も、すべてこれとの関連にお
いて考えられる。
 ヒューモアは、直接的には「語るべからざる」食人的様相を、笑いを添える
ことによって「語りうるもの」にしているが、後期になるにつれて笑いの要素
は薄れ、カニバリズムは人生の脅威と侵害とを劇的に表現し、病める社会秩序
を糾弾する手段としての様相を深める。ディケンズは、幼時の体験に根ざした
強い恐怖と侵害感とを、対立的な手法をはらむ芸術様式へと変容させ、人生の
暗い複雑な様相を示しえたのである。

中西敏一氏追悼
宮崎孝一
 中西敏一さんは、ディケンズ・フェロウシップ日本支部創立と共に入会され
た。毎年の大会には必ず出席されたが、やがて有志によるディケンズの作品の
輪読会が始まると、これにも熱心に参加され、活発な意見を述べられた。十数
年前からフェロウシップの会報が毎年発行されるようになると、中西さんは理
事の中から選ばれて全報編集を担当され、実に細心に、丹念な仕事振りを発揮
された。
 しかし、勉強、仕事の一点張りというのではなく、交友の楽しみもよく理解
しておられた。中西さん初め数人で上州の温泉に旅行したこと、輪読会の後で
成城界隈で一杯飲みながら歓談に花を咲かせたことなども楽しい思い出である。
 ある出版社から、ジョン・フォースターの『チャールズ・ディケンズの生涯』
を出版したいから翻訳を引き受けてくれと頼まれたとき、私は、この大冊を自
分一人で翻訳していたのでは長年月かかるだろうと思ったので、中西さんと間
二郎さんとに協力を依頼して快く引き受けていただいた。実際にやってみると、
予想した以上に厄介で骨の折れる仕事だったが、お二人とも、この上なく綿密
に周到に事に当って下さった。中西さんの分担された部分は、ディケンズのヨ
ーロッパ大陸旅行と滞在の時期を含んでいたが、中西さんの他の著書からも窺
えるように、地誌的興味の非常に強い方だったので、ヨーロッパの各地の地名
に関する注は詳細、正確を極めていた。訳文についても、一応の訳では満足さ
れず、何ページにもわたって書き直されたり、前の原稿の上に紙を貼って書き
足したり、良心的な苦心の跡を留めていた。苦心か大変だっただけに、翻訳が
上下三冊となって出版されたときの我々の喜びは大きかった。三人で仕事の完
成を祝ったのを昨日のことのように思い出す。
 数年前、中西さんは大病を患い、一時は回復も危ぶまれるほどだった。横浜
の病院に見舞ったときの悲痛な気持は一生忘れないであろう。しかし、中西さ
んは驚くべき生命力をもって危機を乗り越えられたのであった。
 病気から回復された後の中西さんの仕事ぶりは、我々の目を見張らせるもの
があった。次々に論文を発表される一方、数人の仲間を誘ってディケンズの『ピ
クウィック・ペーパーズ』の、次には『ボスのスケッチ』の解説、注釈の仕事
を率先して進められ、見事に完成、出版された。これらの書物が、ディケンズ
の作品の着実な研究に資することは、けだし大きなものがあるであろう。好き
な酒も断って仕事に専念される中西さんの姿には襟を正さしめるものかあった。
 昨年夏、学生を引率してアメリカ旅行を試みられたが、帰国寸前に病に倒れ、
現地で入院された。しかし、小康を得て帰国、再び直ちに入院された。私が見
舞ったときは、比較的お元気で言葉も交されたが、その二日後逝去された。十
月十二日のことである。十分健康体でないのにアメリカ旅行に出かけられたの
は無謀なことだったという人もあるであろうが、彼には心中期するところがあ
ったのであろう。好漢逝きて帰らず、永年の同士を失った悲しみは消えない。
(中西さんの遺稿を青木健氏が整理されたものが『イギリス文学と監獄』とし
て出版され、我々は故人の勉強ぶりに改めて感嘆した。)

山本忠雄先生を偲んで
松村昌家
 去る七月二十八日の夜、ディケンズ・フェロウシップ日本支部設立以来理事
をつとめてこられた山本忠雄先生が、享年八十六歳で亡くなられ、三十日午後
一時から東大阪市のご自宅で告別式が行われた。
 先生はつねにディケンズの言葉と文体の研究に関心を向けられ、その分野で
の草分けとして、数多くの業績を残された。わけても英文で刊行されたGrowth 
and System of the Language of Dickens(Kansai University Press, 1944, rev. ed. 1952)
は世界的に高く評価され、その功績によって先生は学士院賞受賞の栄誉を獲得
された。この大著は二部に分かれ、一部においては、ディケンズの英語の生成
と構造の諸様相が解明され、第二部ではディケンズのイディオムに関する研究
が展開されている。ディケンズの作品ばかりでなく、書簡をも対象に入れての、
丹念精緻を極めた研究である。あたかもディケンズ再評価の時期において、こ
の著書がもたらした裨益は、おそらく測り知れないものがある。
 山本先生は、これをいわば序説として、引き続き膨大なDickens Lexiconの編
纂をご計画になり、その完成を畢生のお仕事としておられたが、遂にその実現
を見ることなく逝ってしまわれた。返すがえすも残念でならない口たとえ部分
的でも刊行されることを、私たちは念願していたのであるけれども、学問に関
して殊のほかの厳格さと完全主義を崩そうとなさらなかった先生は、おそらく
未完成作品を世に出すことをいさぎよしとされなかったようである。己を省み
て身のすくむ思いがする。
 しかし先生は、決して学間一すじの謹厳実直型の方ではなかった。数々の思
い出やエピソードがあるが、なかでも座談をこよなく好まれ、またその名人で
あったことが印象深い。何かの話題に興味をひかれ、熱がこもり始めると、ま
さに談論風発とどまるところを知らない、といった感じで、時には聞く方でお
疲れが気になるほどであった。先生がディケンズやシェイクスピアなど、作家・
作品についてお話をなさるときは、本当に生々として幸せそうな語り方であっ
た。
 山本先生は広島高等師範学校時代を含めて広島大学において、多くのすぐれ
た弟子たちを育てられ、のちに大阪女子大学、神戸大学、大谷女子大学などで
教鞭をとられた。私は大学三年のときに、先生の集中講義をしばらく受講した
ことがある。それ以来長年の間、個人的にいろいろとご指導をいただいた。そ
の恩恵は一生忘れることができない。七月初旬からしばらくイギリスに出かけ
ていて、帰国後ロンドンからのお土産話をもって一度お伺いしたいと思ってい
た矢先に、訃報が入り愕然とした。もう一度お会いできなかったのが悔やまれ
てならない。
 死はextinctionでなくてseparationだとディケンズは言った。であればいつか再
会の日がくるはず――そのときまで、先生、安らかにお休みください――。

増渕正史氏より会員の皆さんへのお知らせ
イアン・ウォット著『小説の勃興』(上巻)を、ワープロ・コピー本で本邦初
訳に成功しました。ご希望の方(フェロウシップ会員に限ります)は、送付先
を明記の上、左記宛てにお申込下さい。送料は当方で負担、無料で進呈します。
但し冊数に限りがあります。下巻は、上巻進呈者にのみ、出来上り次第、お送
りします。
〒980
仙台市青葉区荒巻字青葉
宮城教育大学外国語科  増渕正史

日本におけるディケンズ関係ならびにフェロウシップ会員の著訳書等
小池滋著 『もうひとつのイギリス史』 一九九一年 中央公論社
篠田昭夫訳 チャールズ・ディケンズ『人生の戦い――一つの愛の物語』 一
九九〇年 成美堂
藤村公輝訳 フィリップ・コリンズ『ディケンズと教育』 一九九〇年 山口
書店
増渕王史訳 E・M・フォースター『最も長い旅』 一九九〇年 宮城教育大学
外国語科増渕正史研究室
増渕正史訳 E・M・フォースター『眺望のある部屋』 一九九一年 (発行所
は右と同じ)
増渕正史訳 イアン・ウォット『小説の勃興』(上巻) 一九九一年 (発行
所は右と同じ)
吉田孝夫著 『ディケンズを読んで』 一九九一年 あぽろん社
川澄英男訳 『ジョー・ウィリアム短篇集』 一九九〇年 彩流社
大庭・村石共編(青木健、川澄英男、横川信義他著)『英語話題辞典』 一九
九一年 ぎょうせい
村石利夫著 『日本戦国史国語辞典』 一九九一年 村田書店
村石利夫者 『福沢諭吉の知的処生術』 一九九一年 KKベストセラーズ
村石利夫著 『日本語「間違い」辞典』 一九九一年 KKベストセラーズ
中西敏一著 『イギリス文学と監獄』 一九九〇年 開文社
松村昌家編著(臼田昭他著) 『ヴィクトリア朝の父と子』 一九九一年 英
宝社ブックレット

中西敏一氏 ディケンズ・フェロウシップの理事(会報担当)として、会の発
展のために御尽力下さいました、東洋英和女学院短期大学教授中西敏一氏は、
一九九〇年一〇月一二日御逝去なさいました。『会報』一号から一三号まで編
集を担当され、現在の形を確立されました。『ディケンズと英国』での地誌的
研究、『イギリス文学と監獄』での文学と監獄との関係の研究などを始め、多
数の著訳書を残され、学会に多大の貢献をなさいました。心よりご冥福をお祈
り申し上げます。
山本忠雄氏 ディケンズ・フェロウシップの理事として、また、最長老の会員
として会のみならず、英文学の発展に御尽力なされた神戸大学名誉教授山本忠
雄氏は、七月二八日逝去なさいました。ディケンズの作品を言語学的に研究し
た、Growth and System of the Language of Dickens(一九四四年)は、国際的にも
高く評価されています。ご冥福をお祈り申し上げます。

編集後期
 故中西敏一氏のあとをうけて、編集を担当してみて氏の御苦労を知った次第。
一方で、中西氏がひいて下さったレールをそのまま継承する幸運を味わっても
いるという状態です。試行錯誤を続けるうちに、新しいスタイルが生まれてく
れば、と考えています。会員皆様のご協力をお願いしたいと存じます。(青木)

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

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