ディケンズ・フェロウシップ会報 第十九号(1996年)

The Bulletin Japan Branch of Dickens Fellowship No. XIX

発行:ディケンズ・フェロウシップ日本支 部

ディケンズ・フェロウシッブ日本支部
1995年度総会

日時:1995年10月14日(土)午後2時より
会場:東京女子大学文理学部3号館312教室

1. 総会 (2:00−2:45)
2. 研究発表 (2:45−3:30)
ディケンズの「すばらしき新世界」
--朗読台本“Doctor Marigold”にみるディケンズ像--
  佐藤真二 (駒沢大学)
3. 講演 (3:45−5:15)
DickensとThe Daily News
−Ranway Policy一
  植木研介 (広島大学)


1996年春季大会

日時:1996年6月1日(土)午後2時より
会場:名古屋大学シンポジオン

1. 開会の挨拶(2:00〜2:15)
ディケンズ・フェロウシップ日本支部長 小池滋
2. 研究発表(2:15〜3:15)
司会者:松岡光治 (名古屋大学)
発表者およぴ論題
(1)木原泰紀 (福井大学)
「『デイヴィッド・コパフィールド』における監獄的空間」
(2)佐々木徹 (京都大学)
「その次の日の夕方?『マーティン・チャズルウィット』の大団円における混
乱」
3. 講演(3:30−5:00)
司会者:西條隆錐 (甲南大学)
講演者:PaulSnowdon (早稲田大学)
  "Dickens and Drinking"

ポーツマスのディケンズ・カンファレンス
--THe 90th Dickens Fellowship International Conference--

北條文緒

 第九〇回目の国際ディケンズ・フェロウシップ・カンファレンスが七月一八
日(木)から二三日(火)まで、ディケンズ生誕の地ポーツマスで開かれた。
ディケンズ・フェロウシップのポーツマス大学支部とポーツマス支部の共催で、
参加者は約一六〇名、イギリスとアメリカの各支部からが大部分で、あとはカ
ナダ、フランス、オランダ、ノルウエイ、スエーデン、オーストラリア、南ア
フリカ、日本からそれぞれ若干名が参加した。日本からはほかにも参加者があ
ると思っていたのに、来てみたら私一人で初日のディナーに出てゆくときは
少々気後れしたが、そんな不安は無用で、ディナーのあと講演会場に移勤する
ときはもう仲問ができていた。少し遅れてロンドン大学に留学中の金山亮太氏
が参加した。
 講演は国際DF会長のディヴィッド・ディケンズ氏。「ポーツマスとディケン
ズ家」という題で、ディケンズの子孫のなかで、海軍とかかわりポーツマスに
縁のあった人々の話をエピソードを交えておもしろく語られた。ちなみにこの
会長はディケンズの曾孫にあたり、以前会長だったセドリック・ディケンズ氏
の従弟である。ディヴィッド氏は顔の輪郭や髭のかたちが晩年のディケンズに
そっくりで、ディケンズが七〇歳まで生きていたらこんなふうだったかと思わ
れる。そのディヴィッド氏が会期中、人数を数えたり、足りない椅子を運びこ
んだりまめまめしく動いていると、ディケンズその人を働かせているような錯
覚がおきて、私は必要以上に恐縮した。土曜日の夜のバンケットにはセドリッ
ク氏の姿も見えたが、彼もカメラをもって各テープルをつぎつぎに写してまわ
り、ディケンズに似て子孫にもサーヴィス精神旺盛な人が多いようである。
 このカンファレンスに参加したのははじめての経験だったが、予想したもの
とはかなり違っていた。まず基本的にアマチュアのディケンズ・ファンの集ま
りである。もちろんマイケル・スレー夕−氏をはじめ学者たちも参加している
が、その数は一割くらいだろうか。あとはさまざまな職業の、それもすでに現
役を引退した悠々自適の人が多いという印象だった。ディケンズを一頁残さず
読みつくしている人、ギャッズ・ヒル邸の維持保存に奔走している人、この機
会にポーツマスを見ようとやってきた人、動機も熱意の程度もさまざまのよう
だった。国民的作家だったディケンズが研究者だけのものではなく、しかも研
究者とアマチュアとの境界線が意識されずにみなが同じようにディケンズを語
りあうというのは、考えてみれぱ当然のしごく健全なことである。
 お年寄りが多く(私もその一人だが)建物から建物への移動もなにかと時間
がかかる。それを考慮してなのだろうが、プログラムはたいそうスローテンポ
である。五日問に講演が全部で五つ。列挙すれば、上記ディヴィッド氏の話の
ほかに、ポーツマス大学シニア・レクチャラー、スー・ハーパー氏「ディケン
ズと映画」、ご存じマイケル・スレーター氏「ジャーナリトディケンズと小説
家ディケンズ」(これは以前東京で聞いたものと同じ)、マンチェスター大学
シニア・レクチャラー、アラン・シェルストン氏「『骨董屋』における生と死」、
アバーディーン大学シニア・レクチャラー、ポール・シュリカ氏「ディケンズ
の時代の芝居」(題名はいずれも原題を要約したものである)。日曜日の夜に
近くの教会で上演された『骨董屋』の芝居見物もプログラムの一部であった関
係で、作品としては『骨童屋」、トピックとしては芝居や映画の話が頻出した。
ハーパー氏の「ディケンズと映画」は英米における映画制作のシステムとから
めた情報豊かな話で、私にはいちばんおもしろかったが「いかにも大学の先生
の講義という感じ」とか「専門的用語を使いすぎる」という人たちもいて、聴
衆の評価はいまひとつのようだった。だが概して聴衆が間き上手である。話が
終わると、その話にからめて自分の知っている知識を提供したり質間をしたり、
双方に妙な緊張や防御の姿勢がないのが感じがよかった。
 三日目の午後にはワークーショップがあって、ディケンズの作品の朗読、デ
ィケンズ関係のコレクションの展示、研究発表などがいくつかの部屋に分かれ
ておこなわれた。金山氏が『大いなる遺産』について堂々とぺ−パーを読み、
聴衆から好意的なコメントがつぎつぎと出て、日本支部ここにあり、という感
じだった。今年はマツムラが来ないと残念がっていた人が何人もいたが、その
空白も見事に補われた。金山氏のあとには、カナダから来た若い女性の先生が、
小学生に「大いなる遺産』の劇を作らせ上演させて、ディケンズヘの興味を目
覚めさせ、未来のフェロウシップ会員をリクルートしています、というけなげ
な話をした。
 バスを使ったツアーが午後を三回使っておこなわれた。まずポーツマスの文
学散歩的ツアーで、キップリングが少年時代に預けられていた家、コナン・ド
イルが開業していた場所、H・G・ウエルズが従弟奉公をしていた呉服屋の建物
などを見たあと、ディケンズの生家や父親ジョンが働いていた海軍のペイ・オ
フィスに行った。生家は当時としてはなかなか立派なものだと思われ、ここで
暮らしていた一家がマーシャルシーに入るというのはいかにもひどい没落だと
実感した。ペイ・オフィスは風通しの悪そうなせせこましい建物だった。二回
目のツアーはジェーン・オースティンのチョートンの家か、さもなければその
近くのSFの汽車に乗るというチョイス。両方のコースともクリケット・クラプ
で落ち合ってお茶だった。英国のお茶は軽い食事だから、毎日ランチのあとは
食べてばかりいる感じである。最後のツアーは共同墓地でディケンズゆかりの
人びとのお基めぐり。もとマライヤ・ビードネルのウインター夫人やエレン・
ターナンのお墓もあった。
 正規のプログラム終了後の二三日は、オプションのツアーでワイト島に行っ
た。ホーヴァクラフトで十分たらず、ヴィクトリア女王の別邸だったオズポー
ン・ハウス、『ディヴィッド・コッパーフィールド』執筆中にディケンズが借
りて住んでいたというウィンターポーン邸、テニスンの邸などを見て、庭園の
美しさを満喫した。
 以上がプログラムの概要である。来年はアメリカのコネチカットで開催され
る由。その年によって趣が異なるのかどうかは知らないが、今年の経験をもと
にしていうなら、ディケンズについて学術的な議論が集中的におこなわれるこ
とを期待されるむきにはあまり適当ではない。肩の力をぬいて観光や参加者と
の交流を楽しみつつディケンズにつき合うにはもってこいのプログラムである。
参加者は高齢者が多いから若い人には多少違和感があるかもしれない。とはい
うものの、このカンファレンスで知合って結婚したというアメリカ人女性とイ
ギリス人男性のカップルが、これがハネムーンだと言って会期中ひしと寄り添
っていた。そういう副産物も期待できるのかもしれない。



田辺(洋子)さんの『互いの友』上梓に奇せて
On/around Yoko Tanabe's First Japanese Translation of OMF

間二郎

 秋の涼風を感じさせるスマートなカバーに包まれて、田辺さんの『互いの友』
の翻訳が出た。大きい作品で邦訳がないのは『ドンピー父子商会』とこの作品
だけだったが(「ニクルビー』は一九六三年に角川文庫で、たぶん(一)だけ?
出ている)、これでディケンズ最後の完結作の全訳が初めて世に出たわけで、
この作家大好きの一人として大変うれしいことに思う。この作品の訳を「出す」、
「出る」、「今度こそ出す」と、相当期間にわたってホラ吹き気味にサワギ続
けてきた人問としては、まず "......used the word in its Pickwickian sense" 
と煙暮を張らせてもらって、そういう人間だからこそ実感できる祝意--敬意--感
想をひと言、ふたこと--。
 なによりもまず、この訳に集中的に注ぎ込まれた彪大なエネルギーの量(作
品への愛情やら英語の力量やらを含めて)に無条件に脱帽したい。
 それから、ちょっと別次元の感想になるが、「お互いに連絡ゼロの状態で、
この作品を訳すまでに心を注ぎ続けた人間が二人(もっといるかもしれない
が)いたという現象」が生じたのは、この作品自体が、その題名(あるいは主
題) "mutual friend" が持つ共通項的(統率的?)機能をその二人に対して果た
していたからだ、という驚きにも似た思いを味わった。OMF は、まさに『互い
の友』だったのだ--と。これは作品と複数の読者との関係一般について言えるこ
とで、なにを今更という気もずるが、その顕在的な相をまざまざと見た思いが
したとでも言おうか。
 非常に克明な、きめのこまかい英語の読みに大いに感心した。ただその読取
り内容のリプロダクション様式については(読みとり方が忠実であるだけに)、
膝を打つほど見事な言いまわしにぶつかる場合とともに、一拍、顕をひねるこ
ともないではなかった。
 だが、その「頭のひねり」はどんな訳にもあることだろうし、時には或る程
度必要な場合もあるかもしれない。そんな「頭のひねり」よりも、この多様を
きわめた OMF の世界の読み取りを、初めて「全篇纏めて」発表されたことの
方に、感嘆に近い敬意−祝意を覚える。
 それから、ご存じの方も多いと思うが、昭和11〜12年に出た松本泰・恵子夫
妻の『ヂッケンズ物語全集』なるものがある(かなり前に小池さんから一冊貸
して頂いたことがある)。勿論(題名・人名・地名まで日本流にした)摂要書
き直しだが、(1)OT(2)BH(3)GE(4)OCS(5)MC(6)TTC(7)NN(8)DS(9)DC(10)LD
でお終い。OMFは敬遠?されたらしい。そんな事情もこの訳業の意味を間接に
増すことになろうか。なお、幻の書を人間はばもはら「緘して語らず」とのみ
…



一九九五年度総会

研究発表

ディケンズの「すばらしき新世界」
--朗読台本「ドクター・マリゴールド」に見るディケンズ像--
Dickens's "Brave New World"--A Study of "Doctor Marigold": 
The Public Reading Version--

佐藤真二

氈@朗読台本「ドクター・マリゴールド」

 「声を書くことはできない。……でも、語り口なら書くことができる。」「ド
クター・マリコールドの処方」(一八六五)の主人公である大道商人が語るこ
の言葉は、一八五八年に有料公開朗読を開始して熱烈な歓迎を受けたディケン
ズが、声を媒体とする朗読を、文字を媒体とする形式の中に何とかして表現し
ようと試みた意図を表わすものと解釈できる。その実践と考えられるこの短編
は、声を感じさせる主人公の語りにより、全体が構築されている。ディケンズ
はこの作晶を二割程削り、朗読台本「ドクター・マリゴールド」に仕立て、そ
の朗読は、英米両国において、大好評を博した。また、その準備には、二百回
以上ものリハーサルを要したと伝えられている。事実、作品全体を包含する大
道商人の語りや、商売の最中に娘が死ぬ際の、喜劇と悲劇が交錯する場面など
の表現は、プロの俳優並の技術を有したディケンズにとっても、容易ではなか
ったと想像される。本論では、この朗読台本を手掛かりに、ディケンズと公開
朗読の関係、そしてその意味を探りたい。

 ディケンズ文学の待質と公開朗読

 まず、ディケンズが言葉を声に出して執筆していたというエピソードが示す
様に、彼の小説は口語的リズムを有し、音声的表現カを持つ。次に、映画の創
生期の巨匠であるグリフィスやエイゼンシュタインがディケンズから学んだと
いう事実が示す通り、その作品は、映像的描写力に優れる。この二者が、ディ
ケンズの最大の特徴の一つである個性的な人物創造に活用される。人物の外面
は映像的描写によって、その内面は人物に与えられた声によって、読者の記憶
に焼き付けられる。殊に、人物自身の語りが、その人物の特徴となる例は、サ
ム・ウェラーやギャンプ夫人など数多い。マリゴールドも典型的な一例である。
その根底には、「語り手の価値、或は手腕は、真実を語る語り方にあるのだ」
という、ディケンズの芸術観がある。朗読台本「ドクター・マリゴールド」は、
個性的な人物の独特の語りが作品全体を包み込み、そこにすべてが表現されて
いるという点において、ディケンズ文学の特質が、公開朗読の為に最大限に生
かされた作品であり、小説と朗読の最も密接な接点をなすものである。

。 ディケンズの思想と公開朗読

 ディケンズが公開朗読を開始した理由は様々であろう。しかし、死期を早め
る程心血を注いだ奥底には、それに相当する真剣な動機が存在していた筈であ
る。「ディケンズの好んだ教訓は、ますます実利的になり、工業化する世の中
で、我々は、想像力、子供の頃の空想力を育む必要がある、というものであっ
た。」A・ウィルソンがこう語る様に、ディケンズの主眼は、想像力の活性化に
よる人間性の回復だったのではないだろうか。そして、想像力回復の為の最も
効果的な方法の一つが、目に見えぬ声のみによる朗読ではないだろうか。ディ
ケンズが、公開朗読の際に舞合装置等を一切使用しなかった理由もそこにあろ
う。更に朗読とは、本来声であった言葉から、目読等の効率化によって失われ
た、言葉に内在する時間と生命を奪還する行為である。それはまた、人が人を
語るという物語りの原点への回帰でもある。そうした公開朗読会場において生
ずるものは、冷い知性偏重の反応ではなく、涙や笑いという肉体的反応を伴う
全人的体験なのである。

「 現代におけるディケンズ

 十九世紀末、O・ワイルドは、非人間的な獄中からディケンズ全集を請求した。
第一次世界大戦中、ディケンズの息子の一人は、赤十字支援の為に公開朗読を
行った。そして第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人迫害という極限状況
の中、ディケンズ作品を片時も離さぬ父親の姿を、アンネ・フランクは日記の
中に記している。ディケンズの作品が苦しむ人々に勇気を与える現実の力とな
り得たのは、ディケンズ自身が人間の苦しみを体験上知り尽くしていたからで
あろう。
 現代は、ディケンズの時代とは比較できぬ程、科学技術が発達し、生活は格
段と便利になった。その一方、人問が孤独に陥る状況は増大している。通信技
術の進歩は、人問が直接触れ合う機会を激減させ、録音技術は、本来、生命の
存在を意味した声から生命を奪い、生命の存在せぬ所に声を存在せしめるとい
う不可思議な状況を作り出している。こうした、間接的な生を生きざるを得な
い現代において、人問の直接の結びつきを回復する可能性の一つが、ディケン
ズ自身が身をもって示した「生の声」なのではないだろうか。



講演

ディケンズと「ザ・デイリー・ニューズ」--鉄道攻策--
Dickens and The Daily News with Special Reference to Railwy Policy, 
Corn Laws Repeal and The Times

植木研介

 ディケンズは一八四六年一月二十一日に第一号を出した新聞デイリー・ニュ
ーズの編集長に就くことを前年の十一月にプラッドベリー&エバンズ社と契約。
しかしわずか十七号を出した時点、二月九日には友人ジョン・フォースターに
編集長の座を譲って辞任してしまう。何故こんな早い辞任劇が起ったのか。こ
れまで、伝記、研究書の中で論ぜられてきたが諸説あってどうも判然としない。
 原因が一つでないことは従来の研究で判っている。混乱を起している一つの
理由は、ディケンズと行動を共にし一番良く知っているはずのフォースターが
『ディケンズ伝』の中で、「(辞任の)一番の責めがどこにあったのかを云々
する必要は無いし、その貴任がディケンズ自身にどの程度あったのかを今更言
っても仕方あるまい」としか記さなかったことに端を発している。第二は一八
四五年十二月から「デイリー・ニューズ、国会開会日に創刊」と新聞、雑誌で
宣伝を始めたことにある。(タイムズは広告を拒絶)。この為デクスターの『書
簡集』もE・ジョンソンの『伝記』も創刊日の前日、一月二十日に国会が召集さ
れ首相ピールの穀物法完全撤廃へと、保守党を分裂させることになる政策大転
換の施政方針演説が行われたと判断。書簡の日付を割出す根拠としたり、伝記
を記述している。一九九〇年出版、アクロイドの『伝記』もこの点を明確にし
ていない。
 ケンプリッジ大学図書館のデイリー・ニューズと同時期のタイムズに拠りそ
れまでの誤認を確認した。辞任の問題を一八四四年以降の政治・経済の観点か
ら調査してみると『ディケンズ・インデックス』の記述している鉄道方針問題
が、ディケンズ本人の一八四六年一月三十日付プラッドベリー&エバンズ宛書
簡で言及しているごとく、重要な意味を帯びていることが判ってくる。創刊号
の広告面を見ただけで一目瞭然なのだ。ピルグリム版書簡集の第四巻は、日時
の経過と前後の説明において正しく記述している。(両書の編集にニ−ナ・バ
ージェスが関っている事実は記憶されてよい)。一月三十日の書簡の後半、特
にブラッドベリーに向けられた人事争いはむしろ辞任の口実にすぎず、この手
紙は辞任の通告書になっていると言ってよい。
 従来の辞任原因説として、長編小説を書く時間を求めたとの説、新聞の植字・
印刷の仕上りが劣っていたとの説、広告集めの営業が弱かったとの説、ディケ
ンズには経済社説を統括するカが無かったとの説、パクストンとの不仲説、人
事争い説がある。しかし、新聞、タイムズの社史、『パンチ』『メフィストフ
ィリーズ』等風刺雑誌、その他の文献を参考にして重要な点を指描しておくと
次のようになる。
 この新聞の資本の半分はプラッドベリー&エバンス社の所有で、残りの半分
近くもパクストンが出資。彼は鉄道株に深く関与し、鉄道王と呼ばれたハドソ
ン系列の鉄道数社の役員を務めていた。一八四五年の国会でハドソンの大打撃
となるロンドン・ヨーク鉄道(のちのグレート・ノーザン)設立の法案の前文
が通過。ペニン山脈東側でロンドン・エディンバラ間の鉄道独占を企画し、鉄
道株価騰貴に奔走していたハドソンはロビー活動によりこの法案の全面通過を
阻止したが、これに飽足らず一八四五年八月十五日にサンダーランドの補欠選
挙に保守党から立候補し国会議員に当選。この時のウィッグ派の侯補の応援に
穀物法撤廃派の大物コプデンやプライトが駆けつけ、タイムズに「穀物法と鉄
道の対決」と称される象徴的な選挙になってしまう。即ち改革派として穀物法
撤廃に賛成するデイリー・ニューズに、鉄道投機を推進し、穀物法擁護派のハ
ドソンがパクストンを隠れ蓑として強い影響力を持つねじれ現象が起きたのだ。
 一方タイムズは一八四五年の早い時期から鉄道投機熱に警告を表明。またデ
ィケンズを主筆とする有力新聞出現を警戒し、広告の掲載さえ拒否。十二月二
十日に出た「炉辺のコオロギ』には二十七日の紙面で酷評を行なう。同じ頃、
穀物法政策で大転換を画策する保守党の首相ビールは、外務大臣のアバディー
ン卿を通して撤廃方針をリークさせ、タイムズに十二月四日朝世紀のスクープ
をものさせる。この責任をとる形で内閣は総辞職。ウィッグ党を巻きこんだ政
争の後、十二月二十五日ピールは目論見通り擁護派を追い出し保守党による組
閣に成功。穀物法撤廃の政治的争いを好機として新聞創刊を計画したディケン
ズがタイムズの底力を見せられたのは、一月二十二日の女王の国会開会演説と
二十七日のピールの施政方針演説の内容がタイムズの予告と同じと知った時で
あった。一月三十日にディケンズが辞任の手紙を書いた心境が判かるようだ。
以後彼は新聞発行には手を染めない。

追記 『メフィストフィリーズ』一月三十一日号の図版でタイムズ孔雀が、孔
雀の羽根で飾ったディケンズ烏を前に、嘴に咥えているのは『炉辺のコオロギ』
のコオロギ。足許に押えているのはデイリー・ニューズを発行したプラッドベ
リー&エバンズ社の『パンチ』のロゴマークと言える人形パンチの姿である。



一九九六年春季大会

研究発表

司会 松岡光治

 今回の春季大会は六月一日に名古屋大学シンポジオンで開催されましたが、
日本英文学会の次週だったにもかかわらず、全国から多くのディケンジアンの
方に集まっていただきました。杓子定規な国立大学の規則のせいで、この時期
に冷房が使えなかったことは心残りですが、それに合わせて研究発表の方はど
ちらも実にホットなものでした。まず、福井大学の木原泰紀氏が、『デイヴィ
ッド・コパフィールド』のテーマと構成に深く関わっている監獄的空問の諸相
について "disciplinary power" というフーコーの概念を援用して見事に分析
され、説得性にみちた論を展開されました。次に、昨年度の春季大会の開催に
尽力された京都大学の佐々木徹氏が、『マーティン・チャズルウィット』四九
−五二章におけるディケンズの「ちょんぼ」、即ち今まで見過ごされてきたア
クション中の時間的配列の矛盾を指摘されましたが、それはしやれを交えた氏
独特の軽妙さと相俟って、実にユニークで刺激的なものでした。今年は時間の
余裕もあって、いつになく両発表に対して十分な質疑応答がなされ、その点で
は司会者としても心残りはありませんでした。



『デイヴィッド・コパフィールド』における監獄的空間
--Prison-like Spaces in David Copperfield--

木原泰紀

 ディケンズの他の多くの作品と同様、『デイヴィッド・コパフィールド』に
も明らかな監獄的空間を認めることができる。特に、子供時代を通じて、デイ
ヴィッドは絶えず監視と監禁の中に位置づけられている。この監視と監禁が近
代的な処罰の型を示している点に留意されなければならない。マードストン姉
弟、クリークルらが行使する訓育と監視と監禁には、受刑者(デイヴィッド)
の肉体ではなく、精神を責め苛む近代的な処罰の型が示されていると言える。
それは、無秩序な存在を訓育し、矯正し、馴らし、大いなる秩序に組み込むた
めの効果的な方策であり、近代的な権力機構を支える管理機能なのである。こ
の物語には少なからずこの大いなる秩序を志向するメカニズム、新たな権力機
構の影を認めることができる。
 苛酷な子供時代を経て、大叔母ベッツィーに引き取られた後、デイヴィッド
は一見監獄的空間から逃れ得たようにみえる。確かに、デイヴィッドは、マー
ドストン姉弟の家、或いはセイラム・ハウスと言った閉ざされた空問から解放
され、漠とした広大な社会の中に身を置くようになる。しかし、この社会とい
う空間もまた、監視の網の張り巡らされた閉塞的な空間、言わば穏やかな監獄
的空間なのである。ベッツィーの訓育、ユーライア・ヒープの監視の中で、デ
イヴィッドは精神を擦り減らしながらも、社会という大いなる秩序へ馴化して
いく。特にヒープとの確執は、デイヴィッドの成長を促し、単に監視される側
としてだけでなく、徐々に監視する側としての立場を明らかにしていく。
 このデイヴィッドの二重的な存在は、彼とドーラ、そして彼とアグネスとの
関係の中により顧在化されている。デイヴィッドとドーラの関係は、ある意味
で、デイヴィッドの母親とマードストンの関係を反復したものだと言える。つ
まり、ここでは明らかにデイヴィッドは訓育的権力を行使する側なのである。
そして、ドーラは、結果的には、デイヴィッドの母と同様、死によって初めて
穏やかな監獄的空間を逃れることができるのである。一方、アグネスとの関係
においては、デイヴィッドは徹底的に彼女に監視され、訓育されることを積極
的に望む「柔順たる身体」として存在している。しかしながら、アグネスを崇
め、敬うその眼差しには、彼女を典型的な「家庭の天使」の鋳型に押し込める
素振りが明らかであり、その意味では、デイヴィッドは、逆に彼女を監視して
いたと言えるのではないか。
 このようなデイヴィッドの二重的な存在、つまり、権力者と披権力者、或い
は監視者と披監視者に引き裂かれている様相は、この物語全体の構図の中にも
認めることができる。すなわち、物語の進行の中で、語り手デイヴィッドが主
人公デイヴィッドを正に監視し、訓育するという構図である。そのとき、語り
手の統括するこの物語の全容もまた、監獄的空間を示しているのである。



次の日の夕方?--『マーティン・チャズルウィット』の大団円における混乱
"The Next Evening"?: Discrepance in the Denouement of Martin Chuzzlewit

佐々木徹

 『マーティン・チャズルウィット』にはディケンズの勘違いか、あるいは書
き誤りと思われる箇所がいくつかあることは既にクラレンドン版をはじめ様々
な版の編者が指摘しています。しかし、この小説の大団円に於ける作者の混乱
についてはこれまでだれも気がついていないようです。
 クライマックスに於ける物語の出来事の順番は、先ずマーティンとジョンが
ギャンプを訪れる、翌日ジョナスが逮捕される、さらにその翌日ペックスニフ
が懲らしめられる、というものです。ギャンプ訪問が第四九章にあり、続く第
五十章で「次の日の夕方」(即ちジョナス逮浦の日の夕方)マーティンがトム・
ピンチを訪ねてきてひどく彼を非難します。もう少し読み進めるとトムとルー
スがその翌日朝食をとっている描写があり、この後いつものようにトムは仕事
に出かけるのですが、驚いたことにオールド・マーティンが姿を現し、彼を雇
っていたのは実は自分であった、と告げまず。そうするとオールド・マーティ
ンが正体を現すのは、ジョナス逮捕の日の翌日ですから、ペックスニフが成敗
される日にあたるはずです。しかしよく考えてみるとこれはおかしいのです。
 ギャンプとともにジョナスのところにやってきて彼を告発するのはオール
ド・マーティンです。第五二章の記述から推察しますと、オールド・マーティ
ンはロンドンに着くと直ちにトムを使ってジョンを呼びにやり、そしてジョン
からギャンプがジョナスに会いに行く約束について聞いた、ということになっ
ています。ところがこれは不可能なことです。オールド・マーティンがジョナ
スを告発するのに一役買うためには、彼はジョンから話を聞かねばなりません。
ジョンに連絡をとるにはトムに間に入ってもらうよりありません。トムに間に
入ってもらうには自分の正体をトムに明らかにせざるを得ません。そうします
と、前の段落で示したように、オールド・マーティンがトムの前にその正体を
現すのがペックスニフ処罰の日の朝に行われたのでは、彼がジョナス逮捕に関
わっている暇がないのです。なぜなら、ジョナスはペックスニフが懲らしめら
れる前の日に既に逮捕されてしまっているはずですから。
 従ってここには明らかにディケンズの混乱があるのですが、それなら第五十
章の「次の日の夕方」を「その日の夕方」に書き換えれば解決がつくのかとい
うと、そうもいかないのです。ジョナスやペックスニフに関わる本筋とは別に
ディケンズが周到に用意していたと思われる一つの脇筋をたどった場合には
「次の日の夕方」はそのままでよいのです。
 第五十章で突然マーティンが腹を立ててトムの家に乗り込んできますが、こ
の不思議な行動は第五二章になってはじめて説明されます。テンプルでオール
ド・マーティンによってペックスニフが打ち据えられた後でマーティンは叫び
ます。「トム。ぼくは君がこの部屋に入ってくるのを偶然見てしまったんだ。」
つまり、自分の祖父がテンプルに部屋を持っているのを知っていたマーティン
は、偶然ここにトムが入ってくるのを目撃した時、てっきり彼が自分を裏切っ
て祖父のために働いているのだと早合点して、それで怒りに満ちてトムのとこ
ろに乗り込んできたのです。このプロット展開に関してディケンズは実に微妙
な伏線を張っています。第四八章でロンドンヘ出てきたばかりのマーティンは
下宿を探します。するとテンプルから遠からぬところで部屋が見つかり、彼は
夕食のミートパイをかじりながらテンプルの中を歩き回った、と書いてありま
す。ただし、マーティンがこの時にトムの姿を見たとは考えられません。タ食
の時刻ですから、仮にトムがまだ働いていたとしても、彼はテンプルから「出
てきた」はずです。しかし、マーティンは「入ってくる」のを見たのです。第
五十章で「次の日の夕方」というフレーズを使った時、ディケンズはこの脇筋
のことだけを考えていたのではないでしょうか。そうすれば下宿が見つかった
日の翌朝、すなわち、ギャンプのところを訪ねた次の日の朝に、トムがテンプ
ルに入っていくところをマーティンに目撃させる時間の余裕を与えることがで
きるからです。
 『マーティン・チャズルウィット』の大団円ではジョナスの逮捕とペックス
ニフの成敗という山場が相次いで出て来ます。周到に準備したはずのマーティ
ンのトムに対する怒りに関する脇筋が破綻なくそこに入り込むには、既に本筋
の方があまりにも込み入っていたことにディケンズはおそらく気がつかなかっ
たのだと私は思います。また、ここに見られる混乱は、この時点ではまだディ
ケンズはいわゆる「ナンバー・プラン」を作っていなかった、という見解に対
する傍証を構成する、とも言えるのではないでしょうか。



講演

"Dickens and Drink" by Prof. Paul Snowden

司会 西條隆雄

【講師紹介】ポール・スノードン教授はケンプリッジ大学において BA、MA を
取得され、一九七七-八三年に筑波大学で英語を教えた後、早稲田大学で教鞭を
とっておられる。母国語以外にドイツ語、ロシア語、日本語が実に堪能で、い
づれの言語で講演することをもいとわれない。多くの英語教材出版、英語辞書
編纂にたずさわる一方でラフカディオ・ハーン研究に打ちこまれ、現在は『ロ
ンドン百科事典』(大修館)の編集作業に携わっておられる。昨12月に講演を
お願いしたところ快く引き受けてくださり、表記の演題についてディケンズの
作品をふんだんに引用しつつ、London Encyclopedia (1829) をよりどころに19世
紀ロンドンのアルコール事情を興味深く話してくださった。

【講演要旨】17才になったデイヴィッドは「ゴールデン・クロス」に着くと、
食事とともになにか飲み物の注文を促されて「シェリー半パイント」を注文す
る(『デイヴィッド』19章)。同しく24章では、スティアフォースとその友人
を下宿に招いてパーアィーをやり、ぶどう酒をやたらと飲んでへべろけになっ
ている。一方、熟年のピクウィック氏は夕食を終えるとポートワインを2パイ
ント飲み、ハンカチで額の汗を拭っている。1パイントといんば約3合、彼はお
酒はめっぼう強い。当時人々はどういう酒を、何で割り、どのくらい飲んだの
か、加えて飲む場所、アルコール度、値段について述べてみたい。
 まず、酒類には brandy, gin(Geneva, Hollands, Schiedam ともいう)、rum, port, 
sherry, wine, それに ale, porter がある。Ale(strong beer)とは1バレル価18シ
リング以上で売るビールをいい、バレルあたり10シリングの税を支払うもの。
ここに面自い比較がある。ウイリアム・コベットは年聞に消費する紅茶とビ−
ルに要する経費を比ベ、次の試算にたって労働者はビールを飲むことを勧めて
いる。茶は健康に害あって益なく、逆にビールは健康にいいというものである。

	18 lbs. of Tea                     
54 lbs. of Sugar
365 Pints of Milk
Tea tackle200 Fifes
30 Day's works
Loss by going to Public-House

£ 	4	10	0
	1	11	6
	1	10	6
	0	  5	0
	0	16	0
	0	16	0
	0	18	0
£ 	11	  7	2



15 bushels of Malt
15 pounds of Hops
Wear of Utensils一

£ 	6	  0	0
	0	15	6
	0	10	6
£	7	  5	0

 茶は1ポンド(20日分)が5シリング、モルトは1プッシェルが8シリング
で、ピールは冬には2クォート真夏には5クォートを飲む計算である。4ポンド
の節約は労働者の家庭にとってはかり知れない大金である。ところで Daniel 
Pool, What Jane Austen Ate and What Charles Dickens Knew (1993) には、食事とそれ
に合った飲み物があがっているが、アメリカ人にはイギリス人の生活がわかっ
ていないようである。ピクウィック氏は warm ale を好み、さまざまなポートワ
インを飲み美食を賞で、今でいうグルメ族の一人であろう。しかし sherry は飲
んでいない。またクウィルプは rum、ウエラー夫人は pineapple brabdy(禁酒通
動の人々が飲んだ)と決まっている。
 何で割るか。たいていは水で、特にプランデーは水割りが普通。しかし、ボ
プ・ソーヤーのようにストレートを好む人もいる。ウィンクルは "I'll rather 
qualify it." といっているので、水割り組である。'reeking brandy-and-water' もあ
れば、 'brandy and water warm' という場合もある。これは湯割りである。加え
てソーダ水、フルートジュースで割る場合もある。Negus は砂糖、シェリー、
レモンジュースの混合飲料、shrub は砂糖、ラム、レモンジュースをまぜ合わせ
たもの。sherry cobbler はシェリー、砂糖、レモン、ポートワインをタンプラー
に入れ、氷をいれて飲む。
 どのくらいの量を飲んだのか。ヴィクトリア朝の人々はずいぶん飲んだよう
である。'Quite a lot' というのが正しかろう。シェリーは1パイント。Porter な
らクォート。なんといっても 'full-half a pint in a draft' とあるし、'magnum of extra 
strength' を飲み、'A double glass of goes cures the gout' というくらいだから、何か
にかこつけて楽しい杯を傾けていたようである。
 ところでお酒の値段はほぽ3ペンスというのが標準である。'quarter of a pint of 
gin' が3ペンス。従って、'three pence of rum' , 'two six-pennyworth of brandy and hot 
water' という注文がみられる。年収12ポンドのサム・ウェラーは、'nine penn'orth 
of brandy and water luke' を注文し、一枚1シリング6ペンスもするヴァレンタイ
ン・カードを買ってラヴレターを書いている。サムの想いがどれだけカードに
込められているかがわかろうというもの。しかるに、Kit Nubbles は年収6ポン
ドで雇われているが、4半期30シリングというのは、彼にとってすばらしいご
ちそうを意味する。一方ピクウィック氏はフリート獄をでると、現金でビール
500ガロン買う。人によりけりで一概にいえないが、1ポンドは現在の価値に換
算するとすれば20〜200ドルの間とでも言いうるであろうか。
 最後に、ヴィクトリア朝においてはアルコールの度数は現在よりだいぶ高く、
マデイラが22.27%、シェリーは19.17%、ぶどう酒は15〜20%、エ−ルは6.87%、
ポーターで4.20%、ブランデー、ラム、ジンとなると50%を越えている。こう
見ればピクウィック氏がいかに強く、ギャンプ夫人がいかに度外れの飲んべえ
であるかがよくわかるであろう。


編集後記

『会報』十九号をお届けします。
あまり変わりぱえしない中、本号では会貫の業績リストが倍増。会員諸氏の活
曜ぶりがしのばれます。情報交換の場としても利用できればと思っています。

青木

フェロウシップ会員の論文・編著訳書

(一九九五−九六年)

論文

植木研介 「ディケンズとザ・デイリー・ニューズ--穀物法とザ・タイムズを中
心として」 『英語英文学研究』第四〇巻 一九九六 広島大学英文学会
榎本洋「The Small House at Allington試論氈|「誠実」と「不誠実」− 『愛知県
立大学文学部論集』第44号 一九九五 
−−−「David Copperfield における家族と作家の存在について」 MULBERRY 
No.45 一九九六
川本静子 「世紀末の〈新しい女たち〉」 一九九五・一〇〜一九九六・九 『英
語青年』 一二編連載
−−−「清く正しく−手引書の中の〈家庭の天使〉像」『女王陛下の時代』〈英
国文化の世紀〉3 一九九六 研究社
−−−「〈新しい女〉の誕生」『世界の中の英国』〈英国文化の世紀〉5 一九
九六 研究社
西條隆雄 「新救貧法と救貧院の暮らし」『帝国社会の諸相』〈英国文化の世
紀〉2 一九九六 研究社
斉藤九一 「Dickens の Hard Times における Inspection の主題について」 『上
越教育大学研究紀要』第15巻第2号 一九九六
斉藤信平 「『殺し屋』における〈物語言説〉−〈焦点化〉と〈語り手〉−」 『山
梨英和短期大学紀要』第29号 一九九五
楚輪松人 「神話としての「嵐が丘』1エミリー・ブロンテの両性具有の夢−」
梅田倍男編『ことばの地平』 一九九五 英宝杜
Takanobu Tanaka, "Empire, Demarcation, and Home in Dombey and Son" 『人文研
究』第47巻 一九九五
久田晴則「Dickens における都市ロンドンーその自己身体空間化について1」梅
田倍男編『ことばの地平』 一九九五 英宝社
松村豊子 「Inspector Bucket 登場の謎」Infinity 21号 一九九六
--- 「Esther Summerson の "Fragmented Autobiography"」 『津田塾大学言語文化
研究所報』 一九九六
松村昌家 「ジョン・リーチとディケンズ--政治謝刺を中心に--』小池滋編 
Victorian Punch 7 解説資料編 一九九六 棺書房
--- 「ダンディと毒薬--ウェインライト像の変遷」 『甲南経済論集・高橋哲雄
教授退職記念号』 一九九六 甲南大学経済学会
--- 「明治文学と私」『明治文学全集』《新聞雑誌編》6『ディケンズ集』 一
九九六 大空社
--- 「水晶宮とウィンター・ガーデン」 『武蔵野美術』一〇一号 一九九六 武
蔵野美術大学
山崎勉 「David Copperfield--Dora と Micawber のこと」梅田倍男編『ことばの
地平』 一九九五 英宝社
吉田一穂「A Tale of Two Cities--復活と Jerry Crunher」 『甲南英文学』第10号 一
九九五


著書

荻野昌利 『さまよえる旅人たち−英米文学にみる近代自我〈彷徨〉の軌跡』 一
九九六 研究社
栗栖美知子 『ブロンテ姉妹の小説−「内なる」アウトサイダー』 一九九五 リ
ーベル出版
鈴本幸子 『サッカレーを読む−続・不安なヴィクトリアン』 一九九六 篠
崎書林
寺内孝 『チャールズ・ディケンズ「ハード・タイムズ」研究』 一九九六 あ
ぽろん社
富山太佳夫 『ポパイの影に−瀬石/文化史/フォークナー』 一九九六 み
すず書房
松村昌家 『ロンドン万国博覧会と水晶宮』 一九九六 本の友社
三ッ星堅三 『チャールズ・ディケンズ−生涯と作品−』 一九九五 創元社
村石利夫 『知ってなるほどの語源1000』 一九九五 講談社
−−− 『ちょっと読めない漢字1000』 一九九六 日本文芸社
−−− 『ちょっと知りたい隠語1700』 一九九六 日本文芸社
−−− 小説『范蠡』(日本語) 一九九六 KXベストセラー
−−− 小説『范蠡外伝』(中国語) 一九九六 上海文芸出版社
吉田孝夫 『園長室の窓から』 一九九六 中村大古舎

編著

小池滋 『ヴィクトリアン・パンチ』第二−七巻 一九九六 柏書房
富山太佳夫 『ニューヒストリシズム』 一九九五 研究社
−−− 『フェミニズム』 一九九五 研究社
−−− 『文学の境界線』 一九九六 研究社
原英一 Enlightened Groves: Essays in Honour of Professor Zenzo Suzuki 一九九六 
松柏社
川本静子・松村昌家 『新帝国の開化』〈英国文化の世紀〉l 一九九六 研究
社
−−− 『帝国社会の諸相』〈英国文化の世紀〉2 一九九六 研究社
−−− 『女王陛下の時代』△央国文化の世紀〉3 一九九六 研究杜
−−− 『民衆の文化誌』〈英国文化の世紀〉4 一九九六 研究社
−−− 『世界の中の英国」〈英国文化の世紀〉5 一九九六 研究社
松村昌家 『ロンドン万国博覧会(一八五一)新聞・雑誌記事集成』全3巻 一
九九六 本の友社
−−− 『比較文学を学ぶ人のために』 一九九五 世界思想社
山本史郎 『図説アーサー王伝説事典』ローナン・コブラン 一九九六 原書
房


訳書

佐々木徹 『挿絵で読む初期の「パンチ」』マイケル・スレーター 一九九五 柏
書房(非売品)
田辺洋子 『互いの友』上・下 一九九六 こびあん書房
富山太佳夫(共訳) 『デリダー−もうひとつの西洋哲学史』 一九九五 岩
波書店
増渕正史(共訳) 『民族主義・植民地主義と文学』イーグルトン、サイード
他 一九九六 法政大学出版局

会員名簿


ディケンズ・フェロウシップ日本支部

© The Dickens Fellowship: Japan Branch
All rights reserved.