ディケンズ・フェロウシップ日本支部

ディケンズ評価の変遷


 1   1836年−1848年: 笑いと涙
 2   1848年−1870年:円熟期
 3   1870年−1940年: 否定の時代
 4   1940年以後:再評価

チャールズ・ディケンズ (Charles Dickens, 1812-1870) の処女小説が彼を一躍 文 壇の寵児にしたのは1837年、ヴィクトリア女王即位の年であった。そして1870 年に58 才で亡くなるまで、彼は15の長編小説を書き、更に短編小説、雑誌記事は何百 という 数にのぼるが、そのいずれもがベストセラーとなり、30余年にわたる作家活動 の間、 彼はただの一度も筆力の衰えを見せなかった。彼の生涯は、名声をほしいまま にし た、絶頂期の連続であった。

しかし、彼の生きたヴィクトリア朝前期は、めまぐるしい変貌の時期であった。 30 余年の作家活動の間にディケンズ自身も変わればイギリス社会も変わり、文芸 批評も また変わった。例えば、1830年代には小説はいまだ文学とは見なされず、何か 低俗で 軽蔑すべきものと考えられ、その読者人口もごくわずかであった。しかるに 1850年代 には小説が文壇の主流となり、小説全盛時代をもたらして、大衆読者層を定着 させる にいたった。さらに『互いの友』(Our Mutual Friend, 1864-5) になる と、ここでは 塵芥集めの労働者が書物を読み、テムズ河の死体引き上げ人の子どもが、学問 を積ん で身を立てようと夢見ている。なにかの形で、活字が社会の最下層にまで浸透 してい ることがうかがえる。

都市の姿、社会生活、人々の考え方が大きく変動しつづける中で、ディケンズ は莫 大な人気を博しつづけた。しかもその人気は、作品の芸術性が深まり、質的変 化を経 てもなお、動じることはなかった。この人気の秘訣はいったいどこにあったの か。彼 の作家活動は時代とどのように関わっていたのか。あるいはまた、莫大な人気 に対す る反動、とりわけ1870年以降におけるディケンズ批評の急変とそれにともなう 「大衆 的」「皮相的」「構成の不備」といった、今日なお残る評価がどのようにして 形成さ れ、固定していったのか。こうしたさまざまな疑問を念頭におき、作家の著作 活動と 今日にいたるまでの批評のあとをたどることによって、この天才作家の興味あ る受容 の歴史を検証したいと思う。


1. 1836年−1848年: 笑いと涙

ディケンズの処女小説『ピクウィック・ペイパーズ』(The Pickwick Papers, 1836-7) は伝説的な成功をおさめた。24才の新人作家の予想もできない離れ業 であっ た。この予想外の成功は、活字文化に対する当時の社会的需給関係と深い関係 があろ う。当時小説といえば3巻本の体裁で出版され、値段は1ギニ半と決まってい た。この 法外の値段はスコットの『ケニルワース城』(Kenilworth, 1821) が設定 したもので あったが、ロンドンの最熟練工の週給にも相当する小説は、当然ながらごく一 部の裕 福な階級の手にしか届かなかった。しかし1830年前後において、大衆読者層こ そ出現 していないとはいえ、出版界ではリプリントをはじめ、さまざまな事業を企画 して読 者の獲得と国民の教化に乗り出していた。

そうした企画の一つ、といっても過去にいくつか例を見るものであったが、1836 年、チャップマン・アンド・ホール社は、素人スポーツマンを描いた絵に解説 文をつ け、これを1シリングで売る計画を立てた。そしてその解説文をいまだ文名高 からぬ ディケンズに依頼した。しかし、ここでディケンズは作家と画家の立場を逆転 させ、 彼の文章に画家がさし絵をつけることを強引にとり決める。ここに月刊1シリ ングの 分冊出版による『ピクウィック・ペイパーズ』が生まれることになった。 今でこそベストセラーといわれるこの書物も、最初は売れ行きがはかばかしく なかっ た。しかし、第4分冊でサミュエル・ウエラーが登場すると人気は急激に上昇 し、15 分冊を出す頃からは4万部を売るにいたる。4万部といえば、当時の出版界にと っては 天文学的な数字であった。いままで想像もしなかった読者層の存在を知って、 出版業 界はにわかに色めき立ち、活気をとり戻した。

挿し絵画家シーマー (Robert Seymour, 1798-1836) との賭は、ディケンズにと っ て、小説家としての自立を占う試金石であった。これに勝利を収めた彼は作家 として の道を懸命に模索する。『ピクウィック』の大成功に酔うこともなく、その最 終分冊 が終わらぬうちにすでに次の作品の執筆にとりかかっていた。わずか24才で 『ベント リーズ・ミセラニ』(Bentley's Miscellany, 1837-69) の初代編集長に迎 えられ、編 集のかたわら『オリヴァー・トゥイスト』(Oliver Twist) を雑誌に連載 しはじめた (1837年2月)。開巻より提示される、救貧院における人命軽視の見事な諷刺は、 オリ ヴァーが「お粥のお代り」を求める場面で最高潮に達する。当時イギリスにお いて は、新救貧法の制定とそれにつづく功利主義的運営に対する非難が続出し、と りわけ 『タイムズ』紙は人民擁護の立場から、過酷にすぎる実例を列挙しつつ救貧法 中央委 員会攻撃の手をゆるめなかった。ごうごうたる国民の非難を浴びた歴史的現象 を、新 聞記者であったディケンズが見逃すはずはなかった。この小説はヴィクトリア 女王を はじめ多岐にわたる人々に読まれた。確かに、救貧院から泥棒の世界に急転す る構成 上の欠陥はあるものの、それにもかかわらずサフロン・ヒルにおける恐怖と不 安を描 く物語は、読者に強烈な興味をかき立てた。小説批評が知的活動の一分野とし て定着 した現在において、『オリヴァー・トゥイスト』の欠陥を指摘するのはたやす いが、 当時は創作技法に言及する批評活動など、皆無に等しかった。ほとんどはプロ ットの 蓋然性をめぐる議論に終始し、当時の文芸批評誌『アセニーアム』(The Athenaeum, 1828-1921) の書評欄を見ても、批評らしい批評はなく、引用をちりばめつつ物 語を 要約しているにすぎない。したがって小説批評が低次の段階にあって、ディケ ンズが 頼りうる唯一の基準は、読者がどのように受け入れてくれるかということであ った。

ディケンズは書く。書くと売れる。売れるから書く。大人気に支えられ、彼は 矢 継ぎ早に創作した。エイブラム・ヘイワード (Abraham Hayward, 1801-84) は、 "He has risen like a rocket, and he will come down like the stick." (Quarterly Review, lix, 1837) と予言した。 1 華々しい線 香花火だが、やがて棒切れとなって落 ちてこようというのである。しかし、この予言に反し彼の人気は上昇に上昇を 重ね た。『ニコラス・ニクルビー』(Nicholas Nickleby, 1834-1839)は第1 分冊が5万部、 『骨董屋』(The Old Curiosity Shop, 1840-1841) は最初は7万部、次い で5万部に落 ちるがやがて10万部に達した。ヨークシャーの、経営・教育内容ともに悪質な 学校に おけるニコラスの痛快な冒険は大喝采を受け、ネルの死は、読者の涙を絞るば かりか 全国民を喪に服させた。1830年代のディケンズは、まさしく読者を笑わせ、震 え上が らせ、怒らせ、泣かせたのである。

のちに、センチメンタリズムの最たる例として非難を浴びる『骨董店』に涙を 流した のは、一般読者のみではなかった。政治家ダニエル・オコネル(Daniel O'Connell, 1775-1847) は、ネルの死に動転して泣き出し、車窓から外へ本を投げ飛ばした とい われている。(実際のところは「そんな馬鹿な!」といって憮然とした表情を 見せた らしい)。文学作品に疑いの目を向ける『ウエストミンスター・レヴュー』誌 (Westminster Review, 1824-1914) でさえ、「ネルの死は真の悲劇であ る」(1847) と述べている。文芸批評家のフランシス・ジェフリー (Francis Jeffrey, 1773-1850) は、机に頭をのせ、「コーデリア以来、ネルにまさるものはいない」 と いいながら、悲涙にむせんでいた。哲学者カーライル (Thomas Carlyle, 1795- 1881) をはじめ多くの文人・批評家が悲涙を流した。また、ワシントン・アーヴィン グ (Washington Irving, 1783-1859) は『骨董店』のペーソスと道徳的高揚をたい そう 誉めている。 2

このような現象をどう解釈すればよいであろうか、のちの時代はいくらでも非 難の言 葉を浴びせることもできようが、19世紀前半の風土をしらべてみれば、涙は美 しいも のとして称揚されていたことがわかる。ロマン派詩人がほぼ一致して形成した 子ども 像は、幼くして死んでゆく運命にある、神格化された子どもであった。一方、 19世紀 初頭の宗教冊子協会の人々は、臨終の床にあって死を恐れず、最後まで神を信 じ讃え る子どもの物語をつぎつぎに創作し、膨大な売り上げを記録した。子どもの死 亡率が 高い当時にあって、子供を失った親は、単なる神格化だけでは納得がゆかず、 家族の 中で、また社会の中で、子どもの短い生涯がなにがしかの意味と尊敬を集めた ことを 確認したかったのであろう。そのようなわけで、可憐な子どもの死を間近に見 て、他 人事とは考えられない共感の世界がすでにできあがっていたのである。人々は 涙もろ かった。そして涙は美しかった。この特異な時代風潮が、知らずして『骨董店』 に国 民的人気を与えることになったことは、想像に難くない。 3

しかし、名声の絶頂を走るディケンズにも、翳りが見えはじめる。『マーティ ン・ チャズルウィット』(Martin Chuzzlewit, 1843-4) は、作家がこれまで 以上に自信を こめて書いた作品であったが、なにが災いしたか、読者の反応は冷たく、売れ 行きは わずか2万部にしか届かなかった。おそらくは、読者が作家に期待した感傷性 が欠け ていたのであろう。あるいは偽善・独善というテーマを中心にすえたため、必 然的に 個人・家庭・社会を冷たい目で見るこニになり、これが読者にそっぽを向かせる こと になったのかも知れない。とにかく、構成・社会図把握においては、これまで の作品 より大きな前進を見せているにもかかわらず、売れ行きは一段と低くなり、デ ィケン ズは心を痛めた。作家と読者の間に始めて齟齬が生まれたのである。

読者の反応に唯一の信憑性をおいてきたディケンズにとって、この売れ行き不 振は 打撃であった。彼の生涯において例を見ない、2年間の長編小説執筆の空白が生 まれ た。読者はなぜ離れていったのか。読者はすでに彼を見限ったのであろうか。 どうす れば失った読者を取り戻すことができるのか、2年間、彼は考えつづけた。偶然 の着 想で書き上げた『クリスマス・キャロル』(A Christmas Carol, 1843) が 2日間で初 版6,000部を売りつくしたのをみて一時的に安堵はしたものの、根本的な解決 はなに 一つ見つかっていない。以後、毎年のようにクリスマス読本を執筆しつつ、彼 は新し い創作方法を考えつづけた。『鐘の精』(The Chimes, 1844)、『炉端の こおろ ぎ』(The Cricket on the Hearth, 1845)、『人生の戦い』(The Battle of Life, 1846)、『憑かれた男』(The Haunted Man, 1848) がそれで、これらの 短編はすべて 「時」の問題に真正面からとり組み、隠した過去とその予期せぬ現出、疑念・ 嫉妬・ 妄執による呪縛とその解放といったテーマを通して人間の内的分析に傾斜する。 苦し み続けた2年間に、彼はこれまでの作品に欠如していたものを発見した。つま り、空 間的な広がりの中に時の縦軸を発見したのであった。

1846年10月、ディケンズはスイスにあって新しい長編小説『ドンビー父子商 会』(Dombey and Son, 1846-8) の初号の売れ行きを息を殺して待ってい た。全力を 投じて書き上げただけに読者の反応がどうあらわれるか、彼は祈るような気持 ちで あった。やがてフォースター (John Forster, 1812-76) から、初号が『チャズル ウィット』の初号より12,000部多いことを知らされたとき、 4 彼は目を輝 かせ、これま での疲労と心痛が吹き飛ぶのを感じた。読者は彼を見捨ててはいなかったので ある。


2. 1848年−1870年:円熟期

『ドンビー父子商会』は構成・社会図・象徴的手法・人物変化において大きな 飛躍 を刻む。この作品以後、未完の『エドウィン・ドルードの謎』(The Mystery of Edwin Drood, 1870) にいたるまでディケンズは一作ごとに新たな創作方法 を開拓す るが、その一方で、個々の作品は優れた芸術性を湛えたものとなっている。『デ イ ヴィッド・コパーフィールド』(David Copperfield, 1849-50) において は一人称を 使った自伝的作品に挑み、『荒涼館』(Bleak House, 1852-3) は大法院 に対する諷刺 もさることながら、小説史上はじめてといわれる二つの別個の語りをみごとに 統御・ 交錯させながら書き上げた傑作である。『リトル・ドリット』(Little Dorrit, 1855-7) はディケンズの作品群の中で人間分析がもっとも深い。ドリット氏を はじめ 作品中の人々はすべて、物理的あるいは精神的な牢獄に閉じこめられており、 本源的 な自我が十重二十重に包み隠されてしまった人間社会から、自由になる道を必 死に探 し求めた作品である。『互いの友』になると、1860年代から横行しはじめたセ ンセー ショナルな殺人事件や、バラッド、伝説、実話、人気芝居を自在に取捨しなが ら遺産 相続の謎を追う、スリルとサスペンスに満ちた小説を構想している。ベストセ ラー作 家の手の内を見せてくれるような作品である。

こうした月刊分冊小説に加え、長年の夢であった文芸誌刊行が実現し、彼の編 集に なる 『ハウスホールド・ワーズ』(Household Words, 1850-9) および『オ ール・ザ ・イヤー・ラウンド』(All the Year Round, 1859-70) が世に出る。ここ にはさまざ まな著名作家の投稿を受け入れ、編集長自ら朱を入れ改稿を促して、さながら イギリ ス文壇を牛耳る勢いであった。前者には 『辛い世』(Hard Times, 1854) を、後者に は『二都物語』(A Tale of Two Cities, 1859)、『大いなる遺産』(Great Expectations, 1860) を週間連載している。こうした週刊連載小説は文章、 テーマ、 イメージ、象徴手法も簡潔にして明快で、精緻な構成が顕著である。

『辛い世』は、イギリスに蔓延した功利主義思想に対する是正の必要を作品化 すると ともに、セルフメイドマンの人間的短絡さ、偽善性を鋭く描き出している。『大 いな る遺産』においては『デイヴィッド・コパーフィールド』で描ききれなかった スノビ ズムとその行方が、主人公ピップを通して展開され、夢と幻滅が背中あわせと なった 人生の真実相を巧妙にえぐり出した、みごとな作品である。『二都物語』はカ ーライ ルの『フランス革命』に舞台を借り、有能だが酒に溺れて人生を見失った青年 弁護士 が、愛する人のために命を投げ出し、ギロチンの露と消えながらも精神的よみ がえり を果たす物語である。かずかずの名作を生んだこの時期、ディケンズは安定し た読者 層を得た。月刊分冊小説はほぼきまって35,000部を売った。オックスフォード 大学、 ケンブリッジ大学では、学生に大いに愛読され、1857年には30問からなる「ピ ク ウィック試験」 (Pickwick Examination) のコンテストがケンブリッジ大学の 学生に よって開催された。1位が ウォルター・ベザント (Walter Besant)、2位がヘ ンリー ・スキート (Henry Skeat) という結果を見ている。 5

しかし、彼の名声が高くなるにつれ、それを否定する風潮も生まれてきた。一 つに は、彼の小説の根底をなす社会批評に対する、はげしい非難である。分冊出版 の所為 でもあるが、たとえば『荒涼館』においては、作品全体の芸術性に注意を払お うとは せずに、そこに描かれた法曹界、政界、宗教、慈善に対する諷刺をとりあげ、 作家に 猛烈な攻撃を加えた。それぞれの領域で働く大学教育を受けた専門職の人々は、 ディ ケンズの社会批判が公僕である自分たちに向けられていると考え、個人的恨み と反感 をぶちまけたのである。あるいは『リトル・ドリット』 に登場する、なにも仕 事を せず、またしようともしない「繁文縟礼省」なる行政機構も同様であった。サ ー・ ジェイムズ・スティーヴン(Sir James F. Stephen, 1789-1859) は、自分の父が この 省庁の長官として戯画化されていると考え、『サタディー・レヴュー』 (Saturday Review, 1855-1938) 誌上において『リトル・ドリット』に対する個人感情 むき出し の反論をつぎつぎに掲載した。

他の一つは、世紀の中頃より徐々に浸透しはじめた、大陸のリアリズムの影響 であっ た。過度の感情移入、および誇張を嫌い、日常の出来事を淡々と綴る方向に、 文壇の 好みが変わりはじめた。そしてまた、ディケンズとは別の趣味をもち、より穏 やかな 社会観・人間観を持つ新しい世代が育ってきた。文壇の主流は自然主義、審美 主義、 そして魂の発見の方向へ急速に傾いてゆく。こうした若い世代の典型例は『互 いの 友』を批評したヘンリー・ジェイムズ (Henry James, 1843-1916) に見ること ができ よう。彼はこのように評している。ディケンズには「インスピレーションが欠 け、空 想には生彩がなく、無理強いが見られ、機械的」になっている。人物はすべて 「奇人 のよせ集まり」 ("a mere bundle of eccentricities") で、自然の原理で行動せ ず、人間性は見られない。彼には「物事の表面」しか見えない、したがって彼 は「浅 薄な小説家の最たるもの」 ("the greatest of superficial novelists") だ。人 生を教える高邁な哲学はなく、作品の真の偉大さのよって立つ健康な人間感情 を描か ないのであれば、ユーモアや空想は何の役にも立たない。 6

これは、どうあってもディケンズをたたかねばならぬ使命に駆られて書いた、 と言 われても仕方のない批評であろう。自身、完全にディケンズ的な想像力の虜と なり、 その拘束から逃れることのできなかった若きジェイムズが、その拘束を無理矢 理たち 切ろうとして、おそらくは本人も認めるひどい論評を投じたのであった。ジェ イムズ 自身、50年後に『少年・他』 (A Small Boy and Others , 1913) という 回想録の中 で密かにつぎのように告白する。

「どのような形で与えられるにせよ、ディケンズが私たち若い世代の柔らかい 土壌に 刻印する力はとてつもなく大きかった。私たちは、平気な顔で、時代の波に洗 われま いとしたのである。こんな刻印を与えた人のことが話題になったり、あるいは 幼い頃 にはじめて意識したその時分、および彼の存在と威力のことを語りはじめると、 神聖 にして果てしのない地に足を踏み入れてしまい、いろいろな連想がどんどん膨 れ上 がってくる。すると、連想がまだつづいているのに、ここへ来てはいけない、 早く立 去りなさいと警告を受けるのである。彼の力はあまりに大きく、私たちは自由 に--自 由に判断し、自由に反発することをさせてくれなかった。そうしようにも、で きな かったのである」 7
この時代の人々は、後に述べるジョージ・H・ルイス (G. H. Lewes, 1817-78) をは じめとして、ディケンズの想像世界に強く惹かれ、それゆえにその軛から逃れ ていっ た。ジェイムズは、幼時の思い出をいきいきと語りながらも、結局はディケン ズをエ ンターテイナーとして心の片隅に抱きつづけ、知的な目で見ることをあえて拒 んだ。

ディケンズが亡くなった1870年、新聞雑誌に載った死亡記事は、おおむねディ ケン ズを讃えている。「ディケンズはすべての家庭の友 ("the intimate of every household") だ。著名人が亡くなってもディケンズの死によって生じるほどの空 隙 を覚えることはないであろう」(Times, 10 June)。「当代随一の人気作 家で、時代を 代表する作家である」(Daily News)。各紙はそろって初期ディケンズの 人物群をほ め、ユーモア、多様性、陽気さを讃えている。しかし、後期の作品となると様 相は一 変する。巨匠の小説はすべて「最悪」(Saturday Review) の折り紙を貼 られ、かつて は熱狂的に支持されたペーソスも、抒情性、詩情に欠けるとして、「安っぽい」 (Spectator) ペーソスと見なされる。 8


3. 1870年−1940年:否定の時代

1870年の一年間、哀悼の意を表わし非難を控えていた各誌は、1871年になる と堰を 切ったようにディケンズ攻撃をはじめる。生前にはディケンズに賞賛を送って いた マーガレット・オリファント女史 (M. Oliphant, 1828-97) であったが、「ディ ケン ズは表面的で深みがない。年齢とともに知性の脈動は弱まり、天才の潮は遠の いた」 (Blackwood's, June 1871) と述べる。『ダブリン・レヴュー』(Dublin Review) は ディケンズのユーモアこそ誉めるが、自分自身の国家のいろんな機構を愚弄し たので ディケンズを嫌い、彼の人気は「社会の不幸」("a public misfortune") だと断 じ た (April, 1871)。また、『ロンドン・クォータリー・レヴュー』(London Quarterly Review) は「高い教養をもつ人は誰一人ディケンズを芸術家とは 見なして いないし、彼の作品が深い鑑賞眼をもつ人の注意に値するとは思われない」 9 と記し た。目の上のこぶさえなくなれば、なにを述べてもよいと考えているのであろ う。だ が、こうした時代の声を集約し、権威のレッテルによってディケンズの評価を 定着さ せることになったのは『英国人名辞典』(Dictionary of National Biography,1888) であった。19世紀の代表的批評家の一人であったレズリー・スティーヴン (Leslie Stephen, 1832-1904) は、ディケンズの項目を担当し、長文の記事の最後を次 のよう なことばで締め括った。

「もし文学的名声がろくに教育を受けてもいない人々の人気ではかりうるもの であ れば、ディケンズはイギリス小説家の中で最高の地位を占めるはずだ」「彼の 取り柄 は、ろくに教育を受けてもいない人々にこそ適している」「おかしみ、涙もろ さ、活 劇には優れている。しかし感情の深み、細やかさに欠け、観察力に思慮がとも なわな い」。

生前にはヴィクトリア朝文壇の絶頂を極めた天才の業績は、こうして葬り去ら れて しまった。そして、これ以後「無教養」ということばがディケンズ評に頻繁に あらわ れる。

折しも ジョン・フォースターは『ディケンズ伝』(The Life of Charles Dickens, 1872-4) を著し、つづいてディケンズ批判を是正すべく、ジョージ・H・ルイ スの論 文およびそれが手本としたテーヌ (H. Taine, 1828-93) の論文を覆そうとする が、 ジョン・ブラックウッド (John Blackwood, 1818-79) が「またぞろ癇癪のぶり 返し か」と述べて、これに終止符を打った。また、出版社主リチャード・ベントリ ー (Richard Bentley, 1794-1871) の息子であるジョージ・ベントリー (George Bentley, 1825-95) は、ディケンズとフォースターがかつて父と悶着をおこした こと に恨みを抱き、「ディケンズは教養のある人間ではない」と述べて、その伝記 には目 もくれなかった。 10 万一、フ ォースター以外の人によってディケンズ伝が書かれたなら ば、どれだけひどい誤解が生じていたかは想像もつかない。だが、個人感情を 中心に ディケンズを葬り去ろうとする声が出てくる背後には、ディケンズの影響力が いかに 大きかったか、そしてまた、時代がいかにディケンズの諷刺に値する頑迷かつ 閉鎖的 な時代であったかを物語っていよう。

このような否定的状況の中にあって、世紀の変わり目頃を境に、ディケンズ弁 護が 生まれてくる。バーナード・ショー (G.B.Shaw, 1856-1950) は、『ピクウィッ ク』 の陽気さではなく『リトル・ドリット』の社会批評を讃える。不思議なことに アヴァ ンギャルドの作家スウィンバーン(A.C.Swinburne, 1837-1909) は、ディケンズ の前 期の作品も後期の作品も一様に賞賛して、「ディケンズは一時代だけではなく、 いつ の時代にも読まれる作家だ」("Dickens was not for an age, but for all time.") 11 と述べた。 チェスタトン (G.K.Chesterton, 1874-1936) は「ディケンズは厳密な意味にお いて文学作品を創造したのではない。彼は神話を創造したのだ」と述べ、小説 家というよりはむしろ神話作家だとして、前期小説群のいわゆる "great fools" 12 を神格化 するのであった。貧者への同情でディケンズを尊敬したのは ギッシング (George Gissing, 1857-1903) である。しかし、作家である彼は、時代の変化を 敏感に感じており、ディケンズを「多くの点で、古臭い」 13 と断じざ るを得なかった。

ところで、こうした単発的な弁護は出ても、歪みのないディケンズ像を作り出 すだけ の力はなく、すでに定着した作家の評価を変えるにはいたらなかった。総じて、 この 期のディケンズ評は、ほぼ次のように要約されよう。 14

(1) ディケンズの社会批評は稚拙で事実認識に欠け、ばからしい楽天観に も とづい ている。
(2) 扇情性を強調し、ありそうもないことをつぎつぎに書き、かつ全般的 にリアリズ ムに乏しいので、彼の小説は「小説」の規範を犯している。
(3) 彼の小説は人物の内面生活を探求することができない。
(4) 彼の小説は「小説」の規範を犯している。おそらく、芸術に十分な注 意を払わ ずに書いたに違いない。こんな小説家は大道芸人であって芸術    家では ない。
(5) 彼の小説は性関係を描くことができない。
(6) 彼の作品は教養ある読者に興味あることを何一つ述べることができ ない。
(7) センチメンタリズムに訴えるとき、彼の文体は耐えられない。

  上記 (5) については、第一次大戦に従軍した人々の不満であって、戦後のすさ ん だ気持ちのあらわれにすぎないが、以上がディケンズ評の主たるものであった。 これ らは1872年、ジョージ・H・ルイスが『フレイザーズ・マガジン』 (Fraser's Magazine)に書いたディケンズ批評から生まれてきたものである。ルイス自 身は、 ディケンズを大いに賞賛し、彼をまねた小説を書いたことも一度はあったが、 すでに ジョージ・エリオットを通して別種の小説に傾斜を深めていた。ともかく、作 家なき あとの数年間に評価は大きく歪められた。多くの批評家が、学校教育の有無、 絵画や 音楽への言及の有無など、小説とは関係のない要素をもち出しては、無教養、 稚拙、 感情過多といった断定をつぎつぎに下した。この期に書かれた斎藤勇著『英文 学史』 も時代の趨勢を反映して、ディケンズについては「主力を性格描写に集中し」 「変人 や諧謔家や道化者」の活躍では天下一品としながらも、思想に貧しく「人間を 善玉悪 玉に二分しがち」で、「構成上の統一が不完全」であり、「芝居気や誇張」が 多く、 「不自然と感傷性が目立つ」と評している。


           

4. 1940年以後:再評価

ディケンズがまじめな批評の対象になるのは、アメリカでニュー・クリティシ ズ ム、つまり作家の伝記的、歴史的要因を排除し、作品自体の中に有機的統一を 求める 批評がおこったことによる。これによって、作家固有の世界が大きく見直され ること になった。1940年、エドマンド・ウィルソン (Edmund Wilson, 1895-1972) は 1938年 に出版された Nonesuch Letters (5811通) を十分に活用し、"Dickens: The Two Scrooges" を発表してこれまで光を当てられることのなかった後期の作品に比 重を 移し、作家の社会洞察と心理分析の深さを作品順に克明に追った。作家像を鮮 明にす る点で、この書物はそれ以前とそれ以後の研究を区別する画期的なものである。 それ 以前にも専門研究家によるディケンズ研究書はあった。たとえば、ウォード (A.E.Ward, Charles Dickens, "English Men of Letters Series,"1882)、 ヒュー ズ (James L. Hughes, Dickens as an Educator,1900)、ディベリウス (Wilhelm Dibelius, Charles Dickens,1916)、 ホールズワース (W.S.Holdsworth, Charles Dickens as an Legal Historian, 1928)、ワーゲネクト (Edward Wagenknecht, The Man Charles Dickens, 1929) の書物であるが、いずれも作品評価に説得力 を欠いて いる。

ウィルソンに次いで、ジョージ・オーウェル (George Orwell, 1903-50) と ハ ン フリー・ハウス (H. House, 1908-1955) の業績を挙げねばならない。オーウェ ルは ディケンズの成長・変化をたどるのではなく、イギリス人に根ざす根本的な態 度や道 徳的習慣がディケンズによって単純化され戯画化されているからこそ、人々の 記憶に 鮮明に残る点を諄々と説いた。作家像をとらえなおす契機となる好論である。 一方、 ハウスはディケンズの社会改革や社会諷刺が批評家自身の考えで左右されてい ること を憂い、ディケンズの著作とその書かれた時代を関連づけ、作家を当時の正確 な状況 下において把握しようとした。この研究態度がディケンズ像の確立に果たした 功績は はかり知れない。業半ばにして倒れたとはいえ、ハウスが編集をはじめたディ ケンズ の書簡集は、書簡を集める作業にとどまらず、詳注を施してディケンズとその 時代を 明らかにしようとする一大事業であった。作業は今なお継続され、現在第10巻 (1862-1864) まで出版されている。なお、以上の3名に加え、1942年より『デ ィケン ジアン』(The Dickensian) に作品の詳しい注釈を連載したヒル ( T. W. Hill, 1866-1953) を挙げておきたい。彼の業績はのちにペンギン版、オックスフォー ド・ クラシック版、エヴリマン版に注釈を施させる力となり、さらには詳注を施し た "Companion" シリーズ 15 を生み出 す原動力となった。

こうした人々のおかげでディケンズ研究は刺激され、1950年代には伝記、作品 論、 創作技法、批評の歴史についての研究に大きな進展を見た。まず1952年、エド ガー・ ジョンソン (Edgar Johnson, 1902-1995) による『ディケンズ伝』(Charles Dickens: His Tragedy and Triumph) が出版された。入手しうる資料をすべ て駆使し て書いたこの伝記は、魅力的な作家像を描いて大反響を呼び、またたく間にデ ィケン ズ顔負けの25万部を売った。ゆえに、これまでに書かれた作家伝は、フォース ターの ものを除いて影をひそめた。ポープ=ヘネシー(Pope-Hennessy, 1945)、ヘスケ ス・ピ アソン (Hesketh Pearson, 1949)、ジャック・リンゼイ (Jack Lindsay, 1950)、 ジュリアン・シモンズ (Julian Symons, 1951)、マイケル・ハリソン (Michael Harrison, 1953) による伝記である。ただし、ジョンソンの伝記もまた、資料の 妥当 性を深く吟味しなかった点、およびやや迫力を欠く作品論ゆえに、その後幾多 の書簡 の発見とも相まって、40年後、アクロイド (Peter Ackroyd) 16 にとって 代わられるこ とになった。

1957年、いまだ原稿や校正刷り、メモランダには目を向けず、テキスト校正な どは 思いもよらなかった頃に、バットとティロットソン (Butt & Tillotson) が 『執 筆 中のディケンズ』(Dickens at Work) を出版した。(パリではこれより 少し前にシル ヴェール・モノ[Silvere Monod] が『小説家ディケンズ』 [Dickens Romancier, 1953] において、視野は狭いがよく似た研究に打ちこんでいた)。二人の研究 により ディケンズが即興的な作家ではなく、とりわけ 『ドンビー父子商会』において は周 到に構想を練った事実が裏付けられた。現在続刊中の、テキスト校注を施した クラレ ンドン版全集は二人によってはじめられ、その第1巻 Oliver Twist が 1966年に刊行 を見ている。一方、作品論では、若きヒリス・ミラー (J. Hillis Miller) の 『チャールズ・ディケンズ?彼の小説世界』(Charles Dickens: The World of His Novels,1958) がいろいろな欠点を指摘されながらも、大きな足跡を刻んだ。

ディケンズ像がしだいに形成されてゆく中で、125年にわたるディケンズ受容 の歴 史を追ったのはジョージ・H・フォード (George H. Ford) であった。彼はその 著 『ディケンズと読者』(Dickens and His Readers: Aspects of Novel- Criticism Since 1836, 1955) において、それぞれの時代の書評と批評家に語らせるこ とによ り、ディケンズが人々にどのように受け取られ、否定され、そして復活するか を丹念 に整理し、記述した。彼の仕事は15年後に、『ディケンジアン』の作家没後 100年記 念号でさらに敷衍充実された。とりわけフィールディング (K. J. Fielding) は "1870-1900: Forster and Reaction" の論文において、ヘンリー・ジェイムズの ディケンズに対する挑戦とその理由を余すところなく説明している。その翌年、 時代 ごとの代表的文献を再録し、ディケンズ受容の跡を克明に解説したのはフィリ ップ・ コリンズ編集の『ディケンズ?批評の遺産』(Dickens: The Critical Heritage, 1971) である。こうして1970年代前半には、これまで文学者、文学研究家の 間にしば しば見られたディケンズに対する偏った見方は消え、小説家としての彼の地位 がほぼ 確立した。

ディケンズ研究の対象を作品と政治・社会史の関係におき、恣意に流れない作 家像 をうち立てたのは、文学史家の大きな業績であった。一世紀を経て、レズリー・ ス ティーヴンのディケンズ像はフィリップ・コリンズによる『ブリタニカ百科事 典』(15版) のディケンズ像にかわり、シェイクスピアに次ぐ大作家であること が記 されている。膨大なディケンズ研究については、ライオネル・スティーヴンソ ン (Lionel Stevenson) 編集の『ヴィクトリア朝小説--研究の手引き』(Victorian Fiction: A Guide to Research (1964) においてエイダ・ニズベット (Ada Nisbet, 1907-94) が整理し、14年後には G. H.フォード編集の『ヴィクトリア朝小説-- 研究 の手引き続編』(Victorian Fiction: A Second Guide to Research, 1978) におい て、フィリップ・コリンズがその間に急増したあらゆる方面におけるディケン ズ研究 を詳細かつ適切に分類・整理し、解説を加えている。作品論はもちろんのこと、 朗 読、演劇、ジャーナリズム、イメジャリー、文体、挿し絵、出版事情、社会観、 ディ ケンズとロンドンの資料整理は緻密で漏らさず、これらの項目をながめるだけ でも、 作家の複雑性と多様性をうかがうに充分である。ポスト・モダニズム、ニュー・ ヒス トリシズムにもとづく研究も多々あるが、批評用語、批評方法にとらわれず、 作家 像、作品の固有世界の解明につとめるかぎり、ディケンズ研究に新たな領域を 加える ことになろう。一世紀あまりにわたるディケンズ批評の歴史をたどると、エラ・ ウエ ストランド (Ella Westland) 17 が述べる ように、批評家の不足・欠点をあれこれ論じ るよりも、批評家が時代のどのような束縛の中で批評活動をしていたかをとら えるこ とが大切であることに気付く。

最後に余録を二つ記したい。その一つは、『エドウィン・ドルードの謎』に関 して である。出版以来、112年にわたりエドウィンの失踪を追ってさまざまな推測 が行わ れ、一時はチェスタトンを主審判事としてエドウィン殺しの裁判すら演じられ たこと もあったが、これがほぼ解明されたことである。1983年、医学界のフリーラン サーで ある ジム・ガーナー (Jim Garner) は『ハーバード・マガジン』(Harvard Magazine ; January-February, 1983) に "Harvard's Clue to The Mystery of Edwin Drood" なる記事を書き、ジョン・ホワイト・ウエブスター教授によるハーヴァード大 学構内 殺人事件とエドウィン殺しを関連づけ、ディケンズが周到にこの事件をもとに 作品を 書いたことを論じた。この記事は注釈も参考文献も載せていないが、確かな出 版物に もとづいて書いたものであることは、掲載された挿し絵でわかる。その後、松 村昌家 氏が『ハーバード大学殺人事件』(Helen Thomson, Murder at Harvard [Boston: Houghton Mifflin Company, 1971]) という書物を見つけ、事件と作品、そして 作品 の未解決部分の推察を明快に論証し、長年にわたる謎にほぼ終止符を打った。 18 ちなみ に、欧米のディケンズ研究家は、なぜかほとんどトムソンの書物には触れてい ない。 ディケンズ研究の輝かしい一灯である。

他の一つは、リーヴィス (F. R. Leavis, 1895-1978) のディケンズ評価の変化に 関してである。これは、ディケンズ評価の変化がそのまま一個人のそれに当て はまる 例としてとりわけ興味深い。彼はエドマンド・ウィルソンの著書を書評し (Scrutiny, 1942)、おそらくはディケンズへの関心をかき立てられたと思われる。 し かし、当時ヘンリー・ジェイムズ をはじめとする主知主義作家に傾倒していた 彼 は、1948年に著した『偉大なる伝統』(The Great Tradition) において 「成熟した精 神をもつ人は、ふつうディケンズに異常なほどの持続したまじめさに挑む態度 を見出 すことはない」と述べ、偉大な伝統はジョージ・エリオット、ヘンリー・ジェ イム ズ、ジョウゼフ・コンラッドにあるとし、前年『スクルーティニー』誌に発表 した 『辛い世』論を、いいわけ程度に研究ノートとしてつけ加えた。ディケンズの 作品の 中でも、もっともなじみのない『辛い世』をとりあげ、この作品こそ、他のど の作品 も示し得ない力強さを有する作品であると評した彼は、もちろんジョージ・H・ フォードをはじめ多くの人々から非難を受けた。14年後、彼は『スワニー・レ ヴュー』誌 (Sewanee Review, 1962) において、『ドンビー父子商会』 をディケンズの最初の大作とし て論じ、作品のまとまりと詩的なすばらしさを強調するとともに、「ディケン ズの天 才は、偉大な大道芸人のそれである」("Dickens's genius was that of a great popular entertainer") とする説をいつまでも保持してはならないと述べ、自分 の、あるいは時代の、作家像を修正することにつとめている。そして1970年、 夫人と の共著『小説家ディケンズ』(Dickens the Novelist) に彼の総決算とも いえる 『リ トル・ドリット』論を載せた。急いで書いた形跡はあるものの、これはすぐれ た洞察 に満ち、『リトル・ドリット』は世界でもっとも偉大な小説の一つ(もちろん ディケ ンズの最高作)であると評し、詩的なすばらしさとヘンリー・ジェイムズにも 匹敵す る内面描写の深さを湛えた芸術作品であると断じている。ディケンズに対する 彼の変 化は、1940年よりはじまったディケンズ評価の変遷とおもしろいほど一致する。


 

  1. In Philip Collins ed., Dickens: The Critical Heritage (London: Routledge and Kegan Paul, 1971), p.62
  2. Graham Storey ed., The Letters of Charles Dickens, II (Oxford: Oxford University Press, 1969), pp.ix-xii; Edgar Johnson, Charles Dickens: His Tragedy and Triumph (London: Victor Gollancz, 1952), pp.103-4.
  3. 松村昌家編『子どものイメー ジ:19世紀英米文学に見る子供たち』英宝社、1992 年、38-43頁。
  4. John Forster, The Life of Charles Dickens, ed. J.W.T.Ley (London: Cecil Palmer, 1928), p.431; Letter of 11 October 1846 (Letters, IV)
  5. "Calverley Pickwick Examination Paper" in Logan Clendening, A Handbook to Pickwick Papers (New York; Alfred-a-Knoph, 1936), pp.16-26; "The Calverley Examination in Pickwick at Cambridge, 1857," Dickensian, 32 (1936), 51-54.
  6. Dickens: The Critical Heritage, pp.469-73.
  7. Ibid., p.613.
  8. Ibid., pp.502-23
  9. 以上は Dickens: The Critical Heritage, pp. 551-64.
  10. K.J.Fielding, "1870-1900: Forster and Reaction," Dickensian, 66 (1970), 94.
  11. G.H.Ford, Dickens and His Readers: Aspects of Novel-Criticism Since 1836 (1955; rpt., New York: Norton and Co., 1965), p.240.
  12. G. K. Chesterton, Charles Dickens: A Critical Study (1906; rpt., New York: Schocken Books, 1965), p.254.
  13. Ford, p.249.
  14. Ibid., p.229.
  15. 現在までに次の6冊が出版 されている。
    The Companion to 'Our Mutual Friend,' by Michale Cotsell (London: Allen & Unwin, 1986)
    The Companion to 'The Mystery of Edwin Drood,' by Wendy S. Jacobson (London: Allen & Unwin, 1986)
    The Companion to 'Bleak House,' by Susan Shatto (London: Allen & Unwin, 1988)
    The Companion to 'A Tale of Two Cities,' by Andrew sanders (London: Unwin Hyman, 1988)
    The Companion to 'Oliver Twist,' by David Paroissien (Edinburgh: Edinburgh University Press, 1992)
    The Companion to 'Hard Times,' by Margaret Simpson (East Sussex: Helm Information Ltd., 1997)
  16. Peter Ackroyd, Dickens (London: Sinclair-Stevenson, 1990)
  17. Ella Westland, "Dickens and Critical Change: Critical Contexts," Dickens Quarterly, XII (1995), 129.
  18. 松村昌家『英語青年』(1987 年2月号)、『ディケンズの小説とその時代』研究 社、1987年、257-268頁。

  • 西條隆雄『ディケンズの文学 - 小説と社会 -』(東京:英宝社、1998、pp. 3-28)
  • Last updated: December 21, 1998.
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